続・特別な日‐3
3. 翌朝
眼をさました時、青銀の髪の若者は、自分がどこにいるのか分からなかった。
(ここは……)
窓辺に向かい、カーテンを開けると、差し初めたばかりの陽光の中に、見覚えのある木立が浮かび上がっている。
(闇の……館)
意識が少しずつ覚めていくに連れて、自分が家令に助けられてこの客用寝室まで辿り着いた事、竪琴を弾きながらうたた寝していた事が、徐々に思い出されていく。
慌てて身支度を整え、部屋を出ると、廊下の向こう側に使用人が歩いているのが見えた。
「あの、クラヴィス様はどちらに」
「この時刻ですと、そろそろお庭の散策から戻られる頃だと思いますが」
水の守護聖は、礼もそこそこに、庭へと急いだ。
手入れされていない草木が鬱蒼と茂り、見通しも利かない森のような庭を、ようやく明るみ始めた狭霧が一面に覆っている。
(クラヴィス様……)
早く姿を見つけ、うたた寝してしまった非礼を謝りたいと、リュミエールが一歩踏み出した時、霧の奥から、求めていた黒衣長身の姿が現れた。
どれほどの時間、散策していたのか、長い黒髪が霧を吸い、しっとりと重そうに垂れ下がっている。
「もう、起きたのか」
驚いたように呟くクラヴィスに駆け寄り、若者は詫びを言おうとした。
しかし、その前に、相手の低い声が届いてきた。
「昨夜は……無理をさせたな」
リュミエールは深青の瞳を見開き、大きく頭を振る。
「いいえ、クラヴィス様の贈り物だというのに……申し訳ありませんでした」
闇の守護聖は、答えようとしなかった。ただ、いつもの無表情な白い面で、若者をじっと見つめ続けるだけである。
だがその眼差しに、どこか面白がっているような、それでいて当惑しているような色が感じられるのは、霧に和らげられた朝の光のためだろうか。
吸い込まれるような思いで、リュミエールがその色に見とれていると、闇の守護聖は不意に視線を外し、先刻より更に低くなった声で告げた。
「そろそろ休む……竪琴は、また後で聞かせてくれ」
「あ……はい」
小声で答えた若者に背を向けて、闇の守護聖は館へと歩き出した。
だが、数歩も行かないうちにクラヴィスは、その足を止めた。
足下に咲く、静かだが生命感に満ちた、青い花。
(確か、あれは……)
優美な形の花弁を持つそれらは、以前、ある惑星から闇の守護聖へと、高貴な希少種として献上された花だった。
その珍しさと美しさから、研究院やカティス、それにルヴァにも、頼まれて株分けしてやったのを覚えている。
何気なく若者の方を向くと、自分の視線を追ったのか、相手もまた、同じ花を見つめている。
「見るのは、初めてかも知れぬな……早朝しか咲かぬのだ」
まだ昨夜の事を気に病んでいるのか、リュミエールは少し遠慮がちに、それでも素直に答えた。
「はい、初めてです……何と美しい花でしょう」
「気に入ったのなら、分けてやってもよいが」
言いかけてクラヴィスは、この花が、闇の庭以外には根付かなかったのを思い出した。
聖地の環境には合わないが、恐らくは闇のサクリアに反応する性質を持っているために、この庭だけが例外なのだろう──カティスや研究院の者が、そう話していたような気がする。
「宜しいのですか?」
思いがけない申し出に、若者の表情が、日が射したように明るくなっている。
「いや……」
黒衣の青年は、久しく感じた事のない困惑を覚えた。
だが、隠しもごまかしもできようはずがなく、彼は憮然とした表情で、自分の知っている事を告げるしかなかった。
「そうですか……でしたら、分けていただく訳にはいきませんね。みすみす、枯らしてしまうのは可哀想ですから」
少し落胆しながらも、リュミエールは微笑んでそう答えた。
だがクラヴィスは、珍しくも、まだ諦めずに考え続けていた。
(水の館は、ここから一番近い。カティスや他の者の所よりは、闇のサクリアを近くに受けられるかもしれぬ。そうして、もし枯れかけた時には……)
「私が……出向けば良いのか」
「……はい?」
意味を捉えかねて、若者が聞き返す。
「花が枯れそうになったら、その週末は私がお前の所に行くようにすれば、自然と闇のサクリアを近くから受ける事ができよう……竪琴を聞くのは、何もこの館でなくとも良いのだからな」
そう言いながら、クラヴィスは、自分の中の奇妙な感覚を意識していた。
若者が寝室に下がってから、いや、水晶球の光を受けた、あの表情を目にしてからずっと、どこかが解けたままになっているようだ。
これが何を意味するのかは判らないが、少なくとも、不快でない事だけは確かなようだ。
夢でも見ているかのような表情で、ただ礼の言葉を繰り返す若者を眺めながら、黒衣黒髪の青年は、そんな事を考えていた。
X X
同じ朝日の下、聖地の別の場所を、釣り竿を肩に掛けた地の守護聖が歩いていた。
やがて緑の館の近くを通りかかると、菜園の手入れをしている男の姿が目に入る。
「お早うございます、カティス。朝からご精が出ますねー」
「ルヴァか。お早う」
男は作業の手を止めると、人懐こい笑顔を浮かべて地の守護聖に歩み寄った。
「今日も釣りに行くのか」
「ええ、いい天気なもので……そうそう、この間は、リュミエールのお誕生会に、お招きありがとうございました。お食事もコーヒーも、とても美味しかったですよ」
「そうか、喜んでもらえて、俺も嬉しいよ」
頷いて答えながら、緑の守護聖は、前日に誕生日を迎えた後輩の事を思い出していた。
(いつものようにクラヴィスの所に行き、泊まりがけとはいえ、いつものように、演奏をするだけ……か)
「なあ、ルヴァ……普段とほとんど変わらないのに、特別に嬉しい事って、あるものだろうか」
「はあ?」
具体的に何を指しているのかは判らなかったが、カティスがふざけている訳ではなさそうなのを見て取った地の守護聖は、真面目な口調で答えた。
「あるんじゃないでしょうか。ある人から見れば些細でも、別の人にとっては、とても大きな変化だという事もありますから……私だって、収穫ゼロが一に、一が二になっただけで大喜びしてしまいますからね」
「そうだな……」
魚の数以上に分かりにくい違いだとは思うが、それでもリュミエールにとって、闇の館での演奏時間が増えるというのは、きっと、本当に、大きな喜びだったのだろう。
カティスは、闇と水の館の方角を眺めながら、ぼんやりと呟いた。
「もしかしたら、あいつって、凄い奴なのかも知れないな……」
畑仕事をする者、釣りに出かける者、寝に行く者、それを見送る者。
日の曜日の朝を、様々に過ごす守護聖たちの上で、今日も聖地の空は、美しく晴れ渡っていた。
FIN
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