続・特別な日‐
2. 当日
夕食の最後をしめくくるコーヒーを飲み終えると、青銀の髪の若者は、テーブルの端に控えていた家令に微笑みかけた。
「ごちそうさまでした……美味しかったです」
年老いた家令は、その篤実そうな面に穏やかな喜びを表しながら、深く礼をした。
闇の館に泊まるのは初めてだが、食事をご馳走になった事は何度かあったので、ある程度好みが知れているのだろう。今日出された食事は皆、普段と比べて取り立てて豪華という訳ではないものの、さり気なく水の守護聖の好みを意識してあった。
館主の指示ではなく、恐らくは家令の気遣いだろうと察せられたため、はっきり言葉に出しすのは憚られたが、何とか感謝の意を伝えられたらしいのが分かって、リュミエールはほっとした。
一方、共に食事をとっていたクラヴィスは、黙って卓を立つと、居間のソファにその体を移し、習慣のように緩慢な動作で、カードを手に取った。
「また、お弾きいたしましょうか」
自らも居間に入りながら、若者が声をかけると、館の主は黙って頷く。
リュミエールは、いつも演奏に使う大きめの椅子に掛け、静かな曲を選んで弾き始めた。
更けていく夜が、手すさびのようにカードを繰る黒衣の青年に、まるで溶け込むように、限りない安らぎと深みを帯びて広がっていくのが感じられる。
その無辺の淵を、緩やかな波となって揺れ満たしていくように、若者は竪琴を奏で続けた。
どこまでも続くかのような、この穏やかな時間を、帰宅を気にせずに過ごしていられるのを、心の底から嬉しく思いながら。
そのうちに、クラヴィスはカードにも飽きたのか、ふと顔を上げ、若者に視線を向けた。
「はい……?」
リュミエールが声を掛けると、闇の守護聖は席を立ち、告げた。
「……竪琴を持ち、着いて来い」
先も見えないおぼろげな照明の中、長い廊下と階段を進んでいったクラヴィスは、やがて、ある扉の前で足を止め、それを押し開けた。
もはや明かりと呼べる物は一つも見あたらず、ただ闇となっている目の前の部屋に、黒衣の青年は、迷いもなく歩み入っていく。
若者が恐る恐る足を踏み入れると、館の他の場所よりも、一際厚い絨毯の感触が、靴を通して伝わってきた。
部屋の最奥まで至ると、クラヴィスは、カーテンと窓らしき物を、両手で開いた。
「……あ」
闇に慣れた若者の眼に、銀、白、青、黄……数多の宝石を、濃紺の布に散らしたかのような輝きが拡がった。
(星空……これほど美しかったのでしょうか、聖地の星空は……!)
声もなく見とれる水の守護聖の前で、無数の星を背景にした黒髪の男が、静かに振り返る。
「……そこで弾け」
長い指で窓際の椅子を示すと、クラヴィスはゆっくりと部屋の中程に戻り、ほとんど輪郭も見えない暗色のカウチに、身を沈めてしまった。
言われるままに窓辺に向かったリュミエールの視界に、先刻より更にたくさんの美しい輝きが映り込んでくる。
きっとここは、星々を愛でるための部屋なのだろう──そう思いながら、若者は椅子に腰を下ろした。
星空に似合うようにと、繊細で深い響きの曲を奏で始めて間もなく、リュミエールは視界の隅に、見覚えのある小さな白銀の光を認めた。
(あれは……クラヴィス様の水晶球……)
この不思議な球について、闇の守護聖は、ほんの二、三回だが、話してくれた事がある。
好む好まぬを超え、なぜか手放しがたく感じるのだと……もはや思い出せぬほどの遠い昔から、ずっと手元にあると……それからの永い年月、毎日のように執務室と寝室の間を運んでいるのだと……
(……寝室?)
思わず室内を見回すと、確かに、水晶球の卓を挟んでカウチと直交するように、大きな寝台が置かれているようだ。
星の光を僅かに受けた、リュミエールの長い睫毛が、煙るような銀の色を見せながら、ゆっくりと瞬いた。
(では、ここが、クラヴィス様の……)
いちばん心を休められる、部屋。
この宇宙のどこよりも、安らぎを得られる、場所。
そのような所に、入れてもらえた……
演奏を途切れさせないよう気を付けながら、若者は、眠っているかのようにカウチに身を任せている闇の守護聖の、俯いた白蝋の面差しを、切ないほどの感慨と共に見つめるのだった。
X X
不意に疲れを覚えて、クラヴィスは水晶球から視線を外した。
もう、夜より朝に近い時刻だろうか。
かなり長い間、この球を見つめていたように思えるが、結局、何の像も見出せはしなかった。
光を帯びたからと入って、像が現れると限ったものではないし、それほど熱心に探ろうとしていた訳でもなかったのだが……
そう、もとはと言えば、今宵の星が良い配列になっているのを思い出し、竪琴の音の中で眺めて楽しもうと、自分の寝室──夜空が一番よく見える部屋──に移ってきたのだった。
だが、リュミエールが演奏を始めた途端に、水晶球が光り始めたのが気になって、ついカウチに腰を下ろし、見入ってしまっていた。
(……そういえば、竪琴の音がしないようだが)
怪訝そうに窓辺を向くと、青銀の髪の若者が、今にも崩れ落ちそうな姿勢で椅子に座っているのが目に入った。
もう殆ど残っていなさそうな意識を振り絞るように、その華奢な手を、弦に掛けようとしては落とし、また掛けようとしては落としている。
黒髪の青年は、自分の生活時間帯が、平均的な人間のそれと大きくずれている事を、ようやく思い出した。
(難しいものだな……祝いというのは)
呼び鈴を押しながら、彼は、ここ数週間の事を思い起こしていた。
リュミエールの誕生日を思い出したのは、カティスに予定を聞かれる一週間ほど前だった。
その頃たまたま、前年度のスケジュール表を参照する用があったクラヴィスは、そこに、自分の書き入れた文字を見出したのだ。
去年は、何かを贈るという発想のないままに時間が無くなり、結局、祝いというよりは留守の気がかりを埋めるように、サクリアを置いていってしまった。
だが今年は、少しは何かを考えつくだろうと、折を見ては思案を重ね、そうして下した結論が、“泊まりがけの演奏”だった。
誰かを泊めるのは初めてだったので、少しだけ思い切りも必要ではあったが、出直す手間と時間を省き、演奏できる時間を増やしてやれば、きっとリュミエールは喜ぶだろうと……
「お呼びでしょうか」
静かな声と共に、家令が寝室に入ってきた。
館の主はその白い面を、窓辺の若者の方に僅かに傾け、低く命じる。
「……部屋へ」
承知を現す礼をすると、老人は水の守護聖に歩み寄り、遠慮がちに呼びかけた。
「リュミエール様、お休みになるお部屋が用意してございます。どうぞ」
その声に、意識が幾らか戻ってきたのだろう、若者はゆっくりと顔を上げると、窓枠につかまるようにして立ち上がった。
しかし、まるで足が絨毯に囚われたかのように、なかなか前に踏み出せない。
「失礼いたします」
控えめな声と共に家令が脇を支え、ようやくリュミエールは歩き出す事が出来た。
「はい……すみ……」
本人としては精一杯であろう足取りで進みながら、何かを捜すように、左右に首を巡らしている。
間もなく、カウチの横まで来た若者は、闇の守護聖の姿をそこに認めると、安心したように息を付いた。
水晶球の光を受けて、陰影が濃くなっているはずなのに、意識が薄らいでいるためだろうか、その優しい面に浮かぶ表情は普段よりも柔らかく、心細げなまでにあどけなかった。
「もうし……わけ……ありません」
掠れた声が耳に届き、クラヴィスは、自分が束の間、呆然としていたのに気付いた。
構わぬから休め、というように頷いてやると、若者は家令に助けられながら、扉の方へと向かっていった。
二人が部屋を出ていくと、闇の守護聖は、まだ光を放ち続けている水晶球に視線を戻した。
白銀の淡い色の中に、先刻のリュミエールの姿を、残像のように思い返してみる。
普段の包み込むような微笑とは異なった、水の守護聖の思いがけない表情に、クラヴィスは、心のどこかが緩んでいく感触を覚えていた。