男の勲章・2


 こうして数週間が過ぎ、ようやくエルンストの実験により(一時、口がほとんど聞けなくなると言うミスはあったものの)、二人の人格は元の肉体に戻ってきた。




 ところが、元に戻ってから十分もしない内に、暗い顔をしたヴィクトールが王立研究院に現れたのである。

「なあエルンスト、俺の体だが、特に異常は無いはずだったな」

「ええ、商人さんから今朝、書面で頂いた最終報告によると、左肩から背中にかけての古傷が痛む以外に変わった事はないそうですが……どうかなさいましたか?」

 精神の教官は、驚いたように聞き返す。

「左肩だと?そんな所に古傷はないぞ」

「……は?」

「いや実際、この体に戻ってから左肩が疼くし、そのせいか頭まで痛くなってきたんだが、少なくとも傷のせいじゃないのは確かだ」

「ふむ。鏡では見づらい部位ですから、商人さんが傷痕の有無を確認しないまま、その痛みを古傷のせいだと思い込んでいた可能性がありますね。さっそく検査をいたしますので、こちらへ」

 二人が検査室に向かおうとした、その時。

「エルンストさん!ああヴィクトールさんも、ここにいはったんですかっっ!!」

 悲鳴のような叫び声に続き、まだヴィクトールの服を着たままのチャーリーが、二人の前に駆け込んできた。

「どうしたと言うのです、そんなに慌てて」

色素の薄い面を不機嫌そうにしかめて、エルンストが声をかけた。

 チャーリーは両手を広げ、涙目で二人に訴える。

「どうしたもこうしたも……聞いとくれやす、俺の、俺の脚が、ごっつう筋肉質に太うなってしもうたんですわ!ラインぴったしやったお気に入りのスリムパンツも、どれもこれも、全然入らなくなって!ヴィクトールさん、これ、どないなってるんですか!!!」

「そんな馬鹿な……いや、本当に俺は何もしなかったんだ。信じてくれ」

「信じろ言われましてもな、これじゃ……」

「落ち着いて下さい、お二人とも」

いきり立つ商人と動揺する軍人を、エルンストの冷静な声が制した。

「とにかく一度、検査してみましょう。そうして得られたデータを記録と照合すれば、何かが分かるはずです!」




 検査が終わって約一時間後、手持ちぶさたに待っていた二人の前に、ようやく主任研究員が姿を現した。

 チャーリーが、飛びつくように走り寄る。

「エルンストさん、俺の脚がこんなんなった訳、分かりましたか!」

「ええ、ではこの件から申し上げましょう。端的に言って、あなたの脚の筋肉増加は、毎夜のトレーニングによるものです」

「ヴィクトールさん!」

ライトグリーンの髪の商人が、非難するように軍人に向き直った。

「おい、俺はトレーニングなんてやっていないと……」

 慌てて言い出したヴィクトールを遮り、エルンストは静かな声で続ける。

「お聞き下さい。実は、先だってヴィクトールさんの部屋に設置した熱センサーが、非常に興味深いデータを出していたのです。ベッドで寝ている人物が、毎晩決まって深夜になると起きあがり、隣室に移動して奇妙な動きを繰り返し、それからまたベッドに戻って横になるという……」

 主任研究員は、かすかにばつの悪そうな咳払いを挟み、続けた。

「このデータの意味がどうしても分析できなかったので、無用な不安を与えてはと、これまでご本人にもお知らせしなかったのですが、商人さんの脚を見せていただいて、ようやく分かりました。恐らくは、長年の習慣であったトレーニングを止めてしまったためでしょう、ヴィクトールさんの神経は、本人が眠りに就いた頃を見計らって、意思とは無関係に体を動かし、習慣を続行させたのです」

「な……!」

ヴィクトールは絶句した。

「セイランさんが聞いたのも、きっと、この夢遊病のようなトレーニングの物音だったと推察されますね」

エルンストの冷静な分析に、チャーリーは天を仰いだ。

「それじゃ、それじゃいくらトレーニング止めた言うても、何にもならへんやないですか……ああ、いったん付いた筋肉落とすのって、えろう大変なんでっせ!」

「すまん、俺のせいだ。意識がなかったとは言え、自分の体を制御できなかったんだから」

「さて……」

コホンと一つ咳払いをして、主任研究員は言葉を続けた。

「差し支え無ければ、ヴィクトールさんの左肩の件に移りたいのですが」

「へ、左肩?」

商人が、狐につままれたような顔で繰り返す。

「ええ、あなたが古傷のせいだと思い込んでいた、左肩から背中にかけての痛みの件ですよ。確認すれば分かりますが、その場所に傷は無いのです」

 驚いて見上げるチャーリーにに、ヴィクトールは黙ってうなずいてやる。

「……で、原因は何だったんだ」

「左下臼歯に発生した虫歯、ですね。それに伴って肩こりと頭痛が生じたと考えられます。歯の痛みを感知する前に、他の部分に自覚症状が出るのは、よくある症例です」

「虫歯」

精神の教官は、衝撃を受けた表情をしている。

「そんな!俺、毎日食後と寝る前には、きちんと歯磨きしてましたで!」

チャーリーの抗議にも眉一つ動かさず、エルンストは説明を続けた。

「そう、確かに毎日、就寝前に歯磨きをして、それから思い出したようにトレーニングを始めると仰っていましたね。そして最後にスポーツドリンクを摂取し、そのまま寝てしまうのだとも」

「あ」

「入れ替わり状態にあって、お二人はストレスからカルシウムが不足し、免疫も低下、唾液の質量ともに落ちていたと考えられます。更に、糖分が少ない割には虫歯になりやすいスポーツドリンクを口にし、そのまま就寝するのが、日課になっていたとあれば……この期間に虫歯が発生するのも十分あり得る話です」

「虫歯」

呆然と繰り返すヴィクトールに、エルンストは珍しく同情的な口調で言った。

「残念でしたね。虫歯治療歯共にゼロを誇り、9030運動にも高い関心を示していらっしゃったというのに」

「ヴィクトールさん……」

詫びる言葉さえ思いつかず、チャーリーはただ呼びかけた。

 だが精神の教官は、気丈にも笑顔を浮かべ、“いいんだ、気にするな”というように彼の肩を軽くたたくと、広い背中に限りない哀愁を漂わせながら、研究院を去っていった。

 不可抗力の夢遊トレーニングで責められても言い訳一つせず、他人の不注意で虫歯にされてしまったのに文句の一つも言わず……




 (ヴィクトールさん、あんたの一番の勲章はその優しさや、度量の大きさや〜!!!)

泣きたいほどの感動を覚えながら、チャーリーは心で叫んだのだった。
お・わ・り!
0201
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