祝福の章・14




14.



 その日、執務を終えた水の守護聖は、馬車で私邸に向かっていた。

 窓から外を見ると、茜から紺色に変わりかけた空に、うっすらと円い形が浮かんでいる。いつの間にか、月が満ちていたようだ。間もなく日が完全に暮れれば、漆黒の背景に白い光が煌々と冴え渡るのだろう。

 混沌から戻った夜の記憶が、また蘇ってきた。あの時は星空だったが、地に置かれた水晶球が、円く白く周囲を照らしていたのを覚えている。水音の響く中、自分はそれを頼りに、横たわるクラヴィスを見守っていたのだった。

 あれから幾週が経ったのだろうか。つい先日のようにも、遠い昔の出来事のようにも感じられる。

 もし今夜の月の下で、飛空都市と同じ水の流れ落ちる音を聞けば、忘れていた言葉を思い出せるだろうか。不意にそんな考えが浮かび、リュミエールは御者に行き先の変更を告げた。

 

 森に着くと、早くも空は暗色に染まって、淡く見えていた月が鮮やかに輝き始めていた。

 水の守護聖は、馬車を先に帰らせた。多少時間をかければ、歩いて帰れない距離ではない。御者を待たせているのを気にし続けるよりは、まだその方がいいだろう。

 黒い影となった樹木の間をしばらく進むと、やがて湖が見えてくる。その周囲を巡り、小さな草地を横切って、リュミエールは滝のふもとに着いた。白く明るい月光の下、流れ落ちる水と飛沫が銀色に輝いている。あの不思議な虹色こそ伴ってはいないが、やはり、宝玉のように美しい。

 大切な人と共にこの光景を見られたらと、思わずにいられなかった。今日の昼にも執務室を訪れて、いつものように演奏を聞かせたばかりなのに、それでも、今ここにいてほしいと願ってしまう。欲が深すぎると自分を制しても、なお抑えきれない想いが、止まる事を知らない滝のように流れ出している。

「クラヴィス様……」

水音にかき消されそうな声で、リュミエールは呟いた。



 闇の守護聖は、ふと立ち止まった。誰かに呼ばれているような気がしたが、空耳だろうか。

 周囲を見回し、湖の森にいると気づいて、クラヴィスは少し驚きを覚えた。今宵は気まぐれに、早い時間に散策に出てきてしまったが、足に任せて進むうち、ずいぶん遠くまで来ていたものだ。

 このまま行けば、ほどなく湖と、その奥の滝が見えてくるだろう。そう思った時、滝のふもとに立つリュミエールの姿が、忽然と胸に浮かんできた。儚くさえ見える細造りの躯に白い光を受け、誰をも癒す優しい眼差しに憂いをこめて、流れ落ちる水を見つめている。

 無意識に、クラヴィスは歩き始めていた。このような時間に、あの者がいるはずもないと思いながら、それでも勝手に躯が動き、速度を増していく。会いたいという想いだけが燃え上がり、それ以外の全てを振り落としていく。



 枝葉がこすれる音を耳にして、水の守護聖は振り返った。しかし、視界に動く物はなく、風も吹いていない。月の明るさを昼と間違えて、鳥が飛び立ちでもしたのだろうか。

 同じ音が、また聞こえてきた。今度は繰り返し、少しずつはっきりと大きく、人の歩む律動で近づいてくるようだ。

(まさか……)

息の止まる思いで見つめていると、ほどなく木々の間から、丈高い姿が現れた。

 月光に長い黒髪が艶めき、切れの長い双眸には、何か強い感情が現れている。それが驚きと喜びに見えるのは、願望が生んだ幻だからだろうか。

「リュミエール……」

相手が口を聞いたので、ようやく水の守護聖は、自分が見ているのが現身だと気づいた。

「……本当に、お前がいるとはな」

低い声が得も言われぬ快い波となって、耳から胸へ、全身へと広がっていく。何を言われたのかよくわからないまま、リュミエールは答えていた。

「クラヴィス様の事を……考えておりました」

「私の事を?」

繰り返してから、闇の守護聖は独り言のように呟いた。

「呼ばれた気がしたのは、そのためだったか」

今度の言葉は意味を取る事ができたが、かえって水の守護聖は動揺した。先刻の声が届くはずもないのに、この方は何かを感じたのだろうか。たとえば、声に込められていた、強欲なまでの自分の願いを。

 返事に詰まっている間に、クラヴィスもまた滝のふもとまで歩を進め、流れ落ちる水に腕を差し延べた。滴を受けた手を夜空に翳し、しばらく眺めてから口を開く。

「このような輝きが……虹色を帯びて、無数に飛んできたのか」

「はい」

リュミエールは、いくらか救われたような気持ちで答えた。呼びかけの件はともかく、同じ物を見て同じ事を考えていたのが、素直に嬉しかった。

 闇の守護聖は手を下ろし、何事か考え込む様子だったが、やがて、意を決したように話し始めた。

「お前には、伝えておくべきだろう……共に女王に呼ばれたあの日、私は過去からの思いを受け取った」





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