祝福の章・2
2.
リュミエールは、恐慌から醒めた。すぐ前にいる人の、あまりに異様な姿に気づいたのだ。
「クラヴィス様……クラヴィス様!」
全身を強張らせ立ち尽くす闇の守護聖に、リュミエールは必死に呼びかけてみたが、返事はおろか反応さえ現れない。その双眸に、幾度も見てきた“あの表情”が現れているのを、彼はぞっとする思いで認めた。
「なぜ……」
叫んだ事が原因だったのだろうか。自分のような者が何を言ったところで、そこまでこの人の心を乱すものだろうか。いや、理由など考えている場合ではない。このような無防備な状態では、すぐにでも混沌に打ち砕かれてしまうだろう。
反射的に相手を庇おうとして、リュミエールはようやく自分たちが精神体だと気づいた。これでは、覆いかぶさって守ることも叶わない。己の無力さに打ちひしがれるリュミエールをよそに、混沌が攻撃を開始した。
しかし、どういうわけかクラヴィスの精神は、少しも損なわれていないように感じられる。動揺を抑えて様子を窺うと、何かの思いか記憶のようなものが、凄まじい勢いでこの人の裡を駆け巡っているのがわかった。どうやら意識を失っているのではなく、己の感情に圧倒されているようだ。その感情の流れがあまりに急なために、混沌の攻撃さえも撥ね付けられているらしい。
とはいえ、いつまでこの状態が続くかはわからない。クラヴィスの気力が尽き、本当に意識が途絶える前に、何とか守る方法を考えなければならない。
(でも、どうやって……)
途方にくれていると、青年はどこからか別の意思が送られてくるのを、微かに感じた。
『……エール……ラヴィス……』
驚いて、リュミエールは呼びかけの主を探した。
懸命に集中し、感覚を研ぎ澄ますと、万色が混ざり合った混沌の中から、ごく細く淡い光の条が差しているのが感じられた。
『二人とも……やっと、見つけた……』
光はたちまち濃さと幅を増し、言葉は大きくはっきり響いてきた。
『リュミエール、あなたのおかげで、宇宙中の生命を救う事ができました。礼を言います』
複数の女性の声が合わさったような、優しく温かく、そして力強い言葉。女王と補佐官、そして二人の女王候補が、混沌に力と言葉を送り込んでいるのだ。
(生命が……救われた……)
リュミエールは、ひとまず安堵した。思い切って混沌に飛び込んだのは、間違いではなかったのだ。ただ一つ、クラヴィスまでもがここに来てしまうという、大きすぎる誤算さえなければ。
『さあ、ここを通って……』
新たな言葉に周囲を確認したリュミエールは、光の条が、いつか白と金の輝きに覆われた路へと変わっているのに気づいた。
この路をいけば、元の宇宙に戻れるのだろうか。だが、いずれにしろ肉体がなければ、命は保てないはずだ。自分はともかく、大切な人を死なせてしまうのは──
『クラヴィスなら大丈夫です。あなたも……少し我慢してください』
躊躇を見抜いたかのように、言葉が重ねられる。
『早く、こちらへ──急ごしらえで造った路です、あまり長くは持ちこたえられないでしょう』
迷いながら振り返ると、まるで見えない手に引かれるように、クラヴィスが進み始めていた。送られてくる大きな意思が、自由を失った精神を操って動かしているようだ。
リュミエールも、急いでその後に続いた。生死さえ存在しない混沌に留まるよりは、元の世界で最期を迎える方がまだ望ましい。クラヴィスの心が凍ったままなのは気がかりだが、今は女王たちの言葉を信じるしかない。
時おり揺らぎ、薄らぎながらも、輝きは二人を守り、導いていった。先の方に、懐かしい世界の気配がする。背後で混沌が自分たちから隔てられ、遠ざかるのが感じられる。
帰還と同時に、自分は命を落とすのだろう。愛しい人とも、今度こそ別れなければならない。そう覚悟しながら、リュミエールはクラヴィスの後ろを進んでいった。