祝福の章・4




4.

 暮れかけた豪奢な寝室に、一人の女性が横たわっている。黒かった髪は鈍い光を放つ銀色へと変わり、老いと病に痩せ果てて、まもなく生を終えようとしている事が、否応なく見て取れる。

 意識が朦朧としているのか、看護の者に向かってうわ言を繰り返しながら、しかし両の眼には驚くほど強い表情が浮かんでいる。その様は、あたかも激しすぎる感情が、女性から最後の力を奪って燃え輝いているかのようだった。

『あれを……渡すんじゃなかった』

声こそ聞こえないが、唇の動きではっきり読み取れてしまう。

『いくら、あの子が泣いてたからって……あの……水晶球だけは……』



“かあさん!”

衰弱した様子と思いがけない言葉、それに何より、見た事もない表情に、クラヴィスは叫び声を上げていた。

“苦しんでる……僕のせいで……”

守護聖になるという意味もよく理解できないまま、ただ別れを悲しんでいた自分に、母は大切な水晶珠を譲ってくれた。けれど本当は、譲りたくなかったのだ。こんなに弱るほど、それでもまだ悔やみ続けるほど、手放したくなかったのだ。

 衝撃と罪悪感に震えながら、しかし眼を離す事もできず、少年は珠を見つめ続けた。

 やせ細った指に汚れたハンカチを握り締めたまま、なおも母はうわ言を繰り返していたが、その動きは次第に途切れがちになっていった。そしてある瞬間を境に、水晶球は何も映さなくなった。映していたものが、存在しなくなったのだ。

 少年は声にならない悲鳴を上げ、気を失った。



 目覚めた時、少年はこの光景を思い出せなくなっていた。ただ、母がいなくなったという悲しみだけが、虚ろな認識として残っていた。

 だが意識の底には、理由のわからない罪悪感が生じていた。歳月と共に悲しみが薄らいだ後も、この痛みは昼夜を問わず、常に少年の心を苛み続けるようになった。

 

 そのような状態で、馴染めない聖地での日々を過ごしていくクラヴィスにとって、件の水晶球は、いつか大きな拠りどころとなっていた。守護聖でない自分を認めてくれる、ただ一つの存在と感じられたのだ。

 しかし時おり、同じその珠が、なぜか恐怖と嫌悪を引き起こす事があった。幾度かは、衝動的に珠を投げ捨てようとさえしたが、その度に思いとどまると、今度はなぜこんなに大切なものをと、強い自責の念に駆られるのだった。



 こうして、不安定な心を隠し持ったまま成長していった彼は、次第に周囲の者たちから、守護聖として評価されるようになっていった。そればかりか、常に彼を導こうとしては失望していた黄金の少年までもが、同格の仲間と認め、喜んでいるような事を言い出した。

 それが、苦しくてならなかった。自分は評価に値する者ではない、こんな扱いを受けてはいけないのだという葛藤が、絶えず心の奥からわきあがってきた。

 だが、どうする事もできないまま、少年はいっそう精神の安定を失っていき、ついには、昼夜分かたず悪夢を見ているような状態に陥っていた。



 そしてついに、現状から逃れたい一心で、少年は女王の書類を焼くという行動に出た。

 この大罪自体は内密とされたものの、失望の空気が周囲に伝染し、人々が距離を置くようになったので、ようやく彼は少し息がつけるようになった。

 また、図らずもその折にジュリアスが見せた眼差しによって、記憶の封印はより強固になった。表情は違っていたものの、その激しさがどこか母の記憶と重なって、死の床の光景を一層思い出しがたくさせたのだった。



 だが、偽りの安らぎが長続きするわけもなく、クラヴィスは再び安定を失っていった。

 周囲の人たち──とりわけ深い傷をおったであろう、年若い光の守護聖──に対する新たな罪悪感が、日に日に少年の心を蝕むようになっていた。せめて謝罪できたら、少しは楽になっていたかもしれないが、再び評価が上がるかもしれないと思うと、恐ろしくてならなかった。



 身動きが取れないまま時は過ぎ、ある日、二人の女王候補が聖地に現れた。そのうちの一人、物怖じをしない金の髪の少女は、すでに女王の資質が開花しはじめていたのか、聖地の誰よりも慈愛をもってクラヴィスに接してきた。

 当初は戸惑いしか感じなかった彼は、しかし、少女が女王になると直感した瞬間、自らの感情を好意と思い込むようになった。叶うはずがないと知るがゆえに思いつめ、それに相応しい振る舞いを続けたあげく、即位の場で新たな罪を犯した。

 重責を負ったばかりの、痛々しいほど張り詰めた女王の心を傷つけたのだ。あたかも好意を裏切られたような態度を取り、被害者のような声をぶつける事によって。

 奇しくもこの時、彼女があまりに激しい視線を向けてきたために、今度はあのジュリアスの眼差しが、記憶から封じられる事となった。ただ、光の守護聖への理不尽な拒絶反応だけが、後遺症のように心に残っていた。



 こうして、記憶は三重に塗り重ねられ、二重の封印を施された……




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