祝福の章・6




6.



「う……」

低い呻き声を耳にして、リュミエールは祈りを止め、闇の守護聖を振り向いた。

 クラヴィスは双眸を薄く開き、苦しげに胸を上下させている。全てを思いだして、過去と向かい合っているのだ。あまりに永く、あまりに辛い時の断層と。

「あの……眼……」

僅かに開いた唇から、低い呟きが漏れてくる。

「恨んでる……水晶珠……取られたと……」

 この人が闇に囚われるのは幾度か見てきたが、ここまで表情が虚ろになっているのは初めてだった。封じ続けてきた記憶が蘇り、苦痛が限界を越えかけているのかもしれない。このまま、心が崩壊してしまうのだろうか。せっかく、共に混沌を抜け出したというのに。

 激しい自責と悲しみに、リュミエールは気が遠くなりそうだった。封印を解いたのは自分だ。自分が、あの母親の眼差しと同じ眼を向けて、耐え難い記憶を呼び起こしてしまったのだ。

(けれど……)

胸塞がれる思いの中で、しかし、水の守護聖は疑問を覚えた。なぜ、似ていたのだろうか。あの時、自分には恨む気持ちなどなかったのに。どれほど恐慌に陥ろうと、この方を恨むなど、できるはずもないのに。

 再会直後の、灼けるような思いが蘇る。一番大切な方が救われないのでは、何にもならないではないか。しかもその原因が、自分への恩だというなら、世話などしなければ良かった。親しくならなければ、いや、いっそ出会わなければよかった。そうであれば、この方は混沌などに立ち入らず、安泰だったかもしれないのに──

 リュミエールは、その時不意に、別の可能性に気がついた。

 絶望と後悔、そして自分自身への怒り。あの女性も、同じだったのではないか。幼いわが子に衝撃を与え、悲しませてしまうと気づいた絶望、水晶珠を持たせてしまった自身への怒りや後悔。それらが混ざり合って、あの激しい眼差しになったのではないだろうか。

 想像だけで親子の関係に干渉するなど、出すぎた事だとは思う。しかし、この心深い方を産み育んだ母親が、いくら大切な物だからといって、水晶珠のためにわが子を恨むとは、どうしても考えられない。

 水の守護聖は、再びクラヴィスに眼を向けた。刻一刻と生気が失われ、呼吸が弱くなっているのが見て取れる。このままにしておくと、本当に危険な状態になってしまうのではないか。確かめさせるのは酷かもしれないが、救われる可能性が少しでもあるのなら、躊躇ってなどいられるだろうか。

「クラヴィス様」

ついに決断し、リュミエールは相手の耳に口を寄せた。

「お聞きください。混沌で私が心乱れたのは、自分がクラヴィス様を危険に陥れたとわかったからです。あなた様を、誰より大切と思っているからです」

リュミエールは冷たく白い手を取り、話し続けた。

「ですから、もしお母様が私と同じ眼をなさっていたのなら、それは同じ思い──クラヴィス様を、愛するがゆえだったのではないでしょうか」

 遠くを見つめたまま凍りついた双眸には、最初、何の変化もなかった。だが繰り返し話しかけるうち、水の守護聖は、そこに微かな動揺が現れたのに気づいた。



 精神を押しつぶし、捻じ切り、破壊し続ける闇に、あるかなしかの隙間が開いている。そこから、穏やかだが揺らぎのない言葉が注ぎ込んでくる。

 滅しかけていたクラヴィスの精神は、それを受け取ると、綻びを止めた。

(……愛?)

これまで抱いてきた罪の意識と、あまりにかけ離れていて、理解できない。そのような事が、あり得るというのか。

(もう一度、振り返れというのか……)

思っただけで、クラヴィスは竦んでしまった。大きく裂けた傷口に、自ら触れる事になるのだ。これまで以上の痛みと、より深い傷を負う事になりかねない。

 しかし、青年の言葉と手の温もりは、それを凌駕するほど深く響いてくる。決して諦めようとしない、頑固な意志が伝わってくる。

 そうだな、間もなく滅ぶ身が、痛みを恐れるなど意味がない──苦痛に耐えながら、ついに闇の守護聖は、心中で頷いた──わかった、傷を開くとしよう。

 リュミエール、お前がそう言うのなら。




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