祝福の章・7




7.



 暮れかけた陽の中で、長い銀の髪が鈍く輝いている。

 やせ衰えた躯で、それでも記憶どおりの面差しが残る母は、大きな毛布の上に片手を出したまま、うわ言を繰り返していた。

『あれを……渡すんじゃなかった』

激しい眼差しの傍ら、細い指の間から、汚れたハンカチが覗いている。汚れたハンカチ。汚れた布。

 記憶を呼び起こし続けるクラヴィスを、絶望的なまでに強大な罪悪感が襲ってくる。呵責が無数の刃となり、あらゆる方向から刺し抉ってくる。浴びるような痛みに抗う術もなく、ただ力なく身を捩りながら、彼はその布から眼が離せなかった。

 あのような物が、なぜこの場にあるのだ。豪奢な寝室で、看護の者もいるというのに、どうしてあのような布を掴んでいるのだ。

 苦痛に覆われ、呼吸ができなくなっていく。それでも闇の守護聖は、その布だけを見つめていた。そうだ、見せられているのではなく、今は自分の意志で見ているのだ。その小さな布を。縋るように、抱きしめるように、残された僅かな力を振り絞って、母があれほど強く握り締めている、汚れた──

 痛みが全神経に回り、意識が途絶えそうになる。その時、さらに遠い時空から、冷たい一陣の風が吹き込んできた。



 厚い雲の下で、幌のはためく音が続いている。故郷を持たぬ民たちが森に馬車を止め、一夜の休息をとっている。幌は大切な財産だが、破れを接いだ後には、運よくその端切れを分けてもらえる事もあった。

 小さく薄汚れていても、消し炭で線を書く事ができる。書きたかったのは、ただ一つの絵だった。  

『母さんを描いてくれたのかい』

手渡すと、母は大事そうに胸元にしまってくれた。切ないほど柔らかな笑みを浮かべ、寄せてくれた頬の冷たさ。

『クラヴィス、ありがとう。嬉しいよ』

星も月も見えない夜空。焚火が風になびき、煙の匂いと針葉樹のざわめきに包まれる。この生活に終わりが来るなどとは、思ってもみなかった頃。



 暮れかけた陽の中で、長い銀の髪が鈍く輝いている。

 水晶珠の中に見た光景を、クラヴィスは凝視していた。

 あの汚れた布。他の物であるはずがない。絵など消えてしまっただろうが、間違いなくあの布切れだ。いったいどれほどの年月、持っていてくれたのだろう。死の床にあってさえ、混濁した意識の下でなお、決して離そうとしないで。

『いくら、あの子が泣いてたからって……あの……水晶球だけは……』

母の眼差しから、今は、限りない後悔が読み取れる。

 ただ、寂しがらせまいとだけ思って、水晶珠を渡してしまった。何と、愚かな事をしたのだろう。そのせいで幼いお前に、老いて死にゆく姿を見せる事になろうとは、いっそう辛い思いをさせようとは、考え及ばずに。



(これが、あの人の……本当の……)

全ての闇を貫いて、クラヴィスの裡を、血のように時が流れ始めた。

 今ならばわかる。あの眼差しが、何を訴えていたか。最後の瞬間まで、あの人が何を悔いていたか。



 僅かな光を受けた、その髪だけが輝いていた。

 激しい眼差しが、時を越えて、心に訴えかけてくる。

 “クラヴィス、愛する子よ、お前を悲しませたくはなかった”と。




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