祝福の章・8




8.



 切れの長い眼に映る星の光が、揺れたかと思うと、輝く二条の流れとなってこぼれ出した。

「クラヴィス様……」

泣いておられるのですか、とリュミエールは言いかけて止めた。仰向けに横たわる闇の守護聖の、荒かった呼吸が、ゆったりと深くなっている。遠かった眼差しが少しずつ戻り、呼びかけながら握った手にも、力がこもっている。

 見守っているうちに、クラヴィスの視線はゆっくりと動き出し、やがて水の守護聖を捉えた。

「リュミエール……か」

「はい」

リュミエールは、胸の詰まる思いだった。混沌に踏み入った時も、その中で再会した時も、こうしてまた現世で言葉を交わせるとは、思ってもみなかったのだ。

「……お前の、言ったとおりだった」

面は痛々しくやつれていても、その表情は、憑き物が落ちたように静かだった。

「やっと、わかった……やっと……」

溜息とともに繰り返される呟きに、水の守護聖は言葉も出ないまま頷いた。

 やはりあの眼差しは、強い愛情を伝えていたのだ。この方が気づく事ができて、本当に良かった。心構えもなく聖地に来たばかりの幼子が、いきなり死の床にある母の、しかもあのような表情を見てしまったのだから、誤解したのも無理からぬ事だっただろう。

 だが、何と惨く、そして永い時間が過ぎてしまった事か。そのためにこの方は苦しみ、犯さなくともよい罪を重ねてしまったのだ。どうして当時、周囲にいた誰か一人でも、幼子の変調に気づいてくれなかったのだろう。癒し導いてくれる人がいなかったのだろう──

 悲憤を覚えかけた自分に気づいて、水の守護聖は頭を振った。今さら、過去の人を責めてもしかたない。それに、仮に誰かが変調に気づいたところで、何もできなかったかもしれないではないか。自分にしたところで、たまたま精神が入り込んだために原因を知り、一つの可能性を言えたに過ぎないのだから。

 リュミエールは、切ない思いで息をつき、闇の守護聖を見守り続けた。

 地に置かれた水晶珠の光が、白い面を仄かに照らし出している。小さな滝から響く水音の他には何も聞こえず、珠と星々の他には灯りもない静かな夜を、ただ時だけが流れていく。



 やがて空の端が仄かに明るみかけた頃、水の守護聖は、クラヴィスの面に生気が蘇ってきているのに気づいた。心を蝕んでいた痛みがその源を失った今、守護聖の備え持つ生命力が、この方を急速に回復させているのかもしれない。

 しばらくすると、クラヴィスは大きく息をつき、水の守護聖に視線を向けた。血色こそ乏しいものの、そこには、しっかりと現を見つめる眼差しがあった。

 ゆっくりと手を持ち上げながら、掠れ声で問いかけてくる。

「ここに……いたのだろう。大事無いか」

白い指は、自身の胸の辺りを指していた。凍った意識のどこかで、別人の精神を感じていたのだろうか。

「はい……」

水の守護聖は、それ以上答えようもなかった。不可抗力とはいえ、また、結果として助けになったとはいえ、見てはならないものを見てしまった無作法に変わりはない。それなのに、この方は自分を心配してくださっているのだ。

「女王も、無茶をする……」

クラヴィスは独り言のように呟いてから、急に深みを増した声で続けた。

「だが、それでお前は全てを知り、助けてくれたのだな。その上で──」

なぜか緊張を覚えながら、リュミエールは次の言葉を待った。

 その時、どこか遠からぬ処から、二人の名を繰り返し呼ぶ声が聞こえ始めた。水の守護聖は周囲を見回したが、まだ日の昇りきらない薄闇の中では、森の暗い輪郭しか判別できなかった。

 諦めて振り返ると、闇の守護聖が地面に手をつき、身を起こそうとしているところだった。リュミエールは急いで背を支えたが、思ったほどの危なげもなく、クラヴィスは半身を起こす事ができた。どうやら、体力はだいぶ回復しているようだ。

 その間にも呼びかけは繰り返され、やがて森の中から、一人の男の姿が現れた。

「クラヴィス様、リュミエール様!」

男はこちらに気づき、駆け寄ってくると、跪いて一礼した。

「陛下の命でお探ししておりました。お二人には、今日一日私邸でお休みになって、明朝、聖地に向かうようにとのお言葉が出ております。馬車は森の端につけてありますので、宜しければ、今からご案内いたします」

なるほど、近くに来てみれば確かに、聖殿の御者の服装をしているようだ。

「……わかった」

クラヴィスは短く答えると、淡く輝く珠を手に取り、時間を掛けて慎重に立ち上がった。

 こちらの様子から体調を察したのか、御者がゆっくりと歩き出す。続く二人の守護聖たちは、一人は多少ふらつきながら、もう一人は力づけるように少し後ろを、無言で歩いていった。

 飛空都市の光景が、次第に明るさと色を取り戻していく。長く偉大な一夜が、ようやく明けようとしているのだった。




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