闇の章・1ー5


5.


 若き水の守護聖は、クラヴィスに続いて闇の執務室に入ると、当惑したように周囲を見回した。

 (もうすぐだ……)

執務机に着きながら、闇の守護聖は水晶球に目を向ける。

(繊細にして清き心を持つ少年よ、もうすぐお前も、闇を知る事になる……)

 無限の形をした曇り無き鉱物に、微かな白銀の光が浮かんでいる。




 初めてこの部屋を訪れた者は殆ど例外なく、困惑しながら、あるいは虚勢を張りながら出て行き、以降クラヴィスを遠ざけるようになっていた。

 クラヴィス自身は何の作用も受けないので、最初は理由が分からなかったが、どうやら常に仄かな闇のサクリアを帯び、光が遮られているこの空間で、人は自らの奧に閉まっておいた記憶を見出してしまうものらしい。

 それが美しい思い出だろうと、辛い認識だろうと、平穏に日常を過ごすために封じておいた真実をさらけ出されて傷つかぬ者はいない。

 ただ二人だけ、隠すものを持たぬが故に、何の苦しみも見出す事なく部屋を後にした者たちもいたが、明らかに憂いの陰が見えるこの水の守護聖が、彼らと同質とは思われない。

(これでお前も二度と、私に近づこうなどとは思わなくなるだろう……)




 闇に満たされた静寂を通して、少年の気配が伝わってくる。果たしてリュミエールは、己の内に秘められていた悲しみを思い知らされ、苦悶しているようだった。

 (大丈夫だ……お前もまた、守護聖なのだから)

白皙の面を、自嘲の色が掠める。

 繊細な心の持主であっても、再起不能なまでに打ちのめされはしないだろう。この任に選ばれた者は、それほど容易く壊れぬようできているのだ。

 この部屋を出て、真実を再び封じ込めればいい。そうしてお前もまた、時の流れの中で、傷の表面だけを癒していけば……




 だが少年は、震え喘ぎながらも、必死で身を起こそうとしていた。

(……何!)

 思わずクラヴィスは、視線をそちらに向ける。

 携えていた竪琴を取り落とした両腕で、しがみつくように自らの体を抱き、裂けそうなほど強く唇を噛みしめながらも、リュミエールは逃げようとしなかった。

 “忘れたくない、偽りたくない……それが、どれほどの苦しみを伴おうと”

少年の全身から強い意識が立ち上り、闇を拒んでいた自衛の鎧を溶かしていく。

 (この者は……)

切れの長い両眼に、驚異と畏れの色が浮かぶ。

(崩壊する事もなく、自らの裡に、闇を……受け入れられるというのか?)




 やがて、リュミエールは大きく息を突くと、体に回していた両腕を下ろした。

 あどけなささえ残る優しげな面は、些かやつれた様子だが、もう苦しげではない。

(リュミエール……)

黒髪の青年の面が、何かを見出したように明るむ。

 だが次の瞬間、戒めが心に蘇って来ると同時に、それは消えた。




 <近づいてはならない。
 少しでも安らぎに、喜びに、結びつくものには。>




 (そうだ、誰がどれほど強かろうと、私には関係ない。ただ、遠ざける手段が一つ失われただけの事だ)

 燭台の淡い光と、水晶球の白銀の光を吸いながら、クラヴィスの瞳は、果てもない闇の色に沈んでいった。




 少年が目を開け、こちらを窺うのが感じられる。

「クラヴィス様」

闇の中に仄かに浮かぶ、白い花のような微笑。

「もし……お嫌でなければ、竪琴をお聞かせしてもいいでしょうか」

 自分とは違う世界の住人が、ただ思いやりで掛けてくる言葉に、クラヴィスは何の感情もなく頷いた。




 執務机から4,5歩離れた床に膝を付き、竪琴の調子を確かめると、少年は小さく一礼して奏で始めた。

 湖で出会った時に、いや、出会う前から聞こえていた、繊細で清らかな音色。

 目を閉じて聞き入る黒髪の青年の、僅かに残された感性にさえも、それは美しいと感じられた。星を、夕空を美しいと感じずにはおれないように……




 だが急に、演奏は乱れを見せ始めた。懸命に調子を整えようとする試みが、幾度も虚しく終わっていく様子が、音となって伝わってくる。

 つい今し方克服したかに見えた陰が、再びリュミエールを襲っているのを、闇の守護聖は感じ取った。

 (そうか……そうであろうな)

 自らの裡にある闇を引き受けるなど、そう易々と − これほど若く、繊細な神経を備えた者ならば、尚更 − 成し遂げられるものではない。

 それを試みただけでも、比類無いとは言えるが……

 「申し訳……ありません……」

ついに演奏が途切れると、掠れた細い声が聞こえてきた。

 双眸をとじ合わせたまま、闇の守護聖は微かに安堵の息をつく。

 幾らこの者が強いとはいえ、この暗き静寂を壊すほどの力は、さすがに備えていないようだ。

(ならば、敢えて追い払う必要もなかろう……)

 「……リュミエール」

「はい」

名を呼ばれた少年は、驚いたように答える。

 その様子が、館の庭にやってくる子鹿を思い起こさせた。

(あれらの様に、サクリアに惹かれて来るのなら……勝手にすればいい)

 少しずつ、少しずつ少年の呼吸が平らかになっていくのが、闇の中から伝わってくる。

 「落ち着いたか……」

 失った平静を取り戻せたら、もうここに用はないのだろう − そう考えながら、クラヴィスは確認するように声を掛けた。

 「はい」

答えた少年が、竪琴を持ち直す気配がする。

 次に聞こえるのは暇を告げる言葉か、あるいは立ち去る足音かと思っていたクラヴィスの耳に、新たな調べが流れてきた。

 (……律儀な事だ)

 小さな驚きを皮肉に紛らしながら、闇の守護聖は、やはりそれを美しいと感じていた。

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