闇の章・3
1.
止まっているかのごとく緩やかに、静かに過ぎていく、時間。
穏やかな流れに身を任せていれば、澱み続ける重苦しさも、動きを意識する煩わしさも、感じないでいられる。
ただ澱みしか知らなかった頃は、それが重苦しいと気付いてもいなかったのだが。
ふと何かを警戒するように、男は自らの心の中を見渡すと、戒めの音が鳴らされる気配がないのを確認し、再び緊張を解いた。
(それほどの状態ではない、という事か)
確かに……こうして幾ばくかの平静を得た所で、この闇に些かの変化でも生じる事など、ありえないのだから。
目の前で奏でられている繊細な音楽に、そのような力などあろうはずもないのだから。
それから幾節の旋律が過ぎていった頃だろう。耳に届くそれが、どこか陰を帯びているような気がして、男は眼を開きかけた。
だが次の瞬間、音は普段の姿に戻っていた。
(思い違いだったか……)
再び流れに身を委ねながら、男は心中で溜息をついた。
ほどなく、今日の日も沈む。もうしばらく黙っていれば、向かいの椅子の若者も、いつものように暇を告げていくのだろう。
(時を区切るものが何もなければ、その経過を感じる必要もないのだが……)
どういう訳か、以前より長さを増したように感じられる夜を目前にして、男はゆっくりと呟いた。
「……もう、日暮れか」
水の守護聖の残像が、深更になってもまだ部屋に留まっているように感じられる。
いつの間にか背丈も伸び、いくらか力強さを帯びてきたとはいえ、まだ華奢な線の残る立ち姿。控えめながら懸命さの現れた声。穏やかでまっすぐな眼差し。
『カティス様からお茶のお招きを頂いております……クラヴィス様も是非、と言付かりました。いかがでしょうか』
幾度か聞いた覚えのある、そして一度も叶えられた試しのない願いを、若者はまたも言い出したのだった。
だが、これまでして来なかった事を、敢えてするような意欲は無いし、しなければならない理由も見当たらない。はっきり言葉にした訳ではないが、自分のこの考えは、リュミエールも察しているように見受けられる。
それなのに──応じられる見込みが無いのを知ってなお──若者は誘いを繰り返しているのだ。
(分からぬ……)
招待を受けたところで、リュミエールにいったいどんな益があるというのだろう。あるいは叶えられなかった場合、どんな不利益を被るというのだろうか。
見当もつかない問いを、心中で唱えるように繰り返していたクラヴィスは、やがて我に返ると、何かから逃れるように居間を出ていった。
歩き疲れるための散策にも飽き、未明になってようやく就いた床での眠りは、いつもながら浅く途切れがちだった。
重苦しい気分のまま目覚め、体を引きずるように寝室を後にすると、すでに頂点を過ぎた日の光が、数少ない窓から廊下に射しているのが見える。
だが居間に着いても、水の守護聖の姿はなかった。
執務の無い日なのにどうしたのかと、しばらく訝しんでから、ようやく前日の会話を思い出す。
(そうか……緑の館に行くと言っていたな)
ただでさえ週末は時間を持て余すというのに、竪琴を聞く事もないのでは、余計にどうしたらいいか分らなくなる。
『明日の日の曜日は……ルヴァ様もいらっしゃるのですが……』
遠慮がちに発せられた言葉をぼんやり思い出すと、珍しくもそこから連想が働き始め、様々な像が心に浮かんでは消えていく。
(ルヴァ……読書……本……)
セピア色の文字の並ぶ黄ばんだページが、一枚また一枚と捲られていく。古い書物独特の手触りと匂い、未知の事柄が頭に流れ込む感覚、薄暗く静かな部屋で、あっという間に過ぎていく週末。
(何だ、これは……私の記憶なのか?)
信じられない思いで、クラヴィスは遠い時間が蘇ってくるのを感じていた。
まだ子どもだった頃──ようやく長い文章が読めるようになった頃だろうか、時を忘れて書物を読みふけっていた時期が、確かにあった。この自分が、少しでも多くの知識を得たいと、そうして役に立つ人間になりたいと思っていた事が──
クラヴィスは、思わず喘ぎをもらした。
(警鐘……!)
しばらく鳴っていなかった音が、抉るように鋭く心に響き渡っている。
だが──こんな事は初めてだったが──その戒めの意味が、彼には分らなかった。
仄かな輝きを放つ髪が、その下から向けられた激しい眼差しが、逸らしようもなく大きく強く、眼前に迫ってくる。
(何故だ……あれは彼女とは関係ない、彼女が聖地に来るよりずっと前の事だったはずだ……!)
白い手で掻くように胸元をつかみながら、クラヴィスは心中で叫んだ。しかし、それを押し流す勢いで、後悔と罪悪感が溢れ出してくる。
<見てはならない。触れてはならない。考えては、近づいては……>
<……許されるとでも思っているのか!>
理由を求めて視線を捉えようとしても、その厳しさはとうてい耐えられるものではなく、彼はただ嵐の過ぎるのを待つ者のように、うずくまっているしかなかった。
心も瞼も固く閉ざしたその様子は、端からは気を失っているか、あるいは苦しい眠りに就いているように見えたかもしれない。