闇の章・2ー6
6.
機械仕掛けで噴き出し、循環し続ける水は、いつものように清冽で心地よかった。
片手を差し入れ、その冷たさと感触を体に流し込みながら、疲労を徐々に解放していく。
幾つもの曲面が複雑に混じり合う黒い水面も、そこで砕かれ、あるいは溶け合いながら踊り続ける星々の光も、見つめているだけで、軽く心地よい目眩をもたらしてくれる。
だが、そうしながらもクラヴィスは、青銀の髪の少年が、少し離れた所から見つめているのを感じていた。
(水……か)
遠い惑星の声を聞き取り、水の力を司るこの者ならば、あるいは、聖地の水の癒しを感じられるかもしれない……
「……リュミエール」
ぼんやりと浮かんだ考えの続きが、そのまま唇から零れ出し、黒髪の青年は思わず息を呑んだ。
回復しきっていない疲れが、意識の堰を拡散させ、思いついた事を全て、声として流出させてしまうのだろうか。
「は、はい」
少年の、いつになく高い声が聞こえる。優しい面に浮かぶ驚愕の表情が、目を向けてもいないクラヴィスの心に、はっきりと映り込む。
(……このような像が、なぜ浮かぶ?他人の表情になど、注意を払った試しもないというのに……)
自分の中からこちらを見つめてくる、驚きと喜びに溢れた青い眼差し。
それを無視できる気力は、もう残っていないようだった。
また、言葉が出てしまう。
「聖地の水の持つ……特別な力を、お前なら感じられるだろうか」
少年が、静かに踏み出してくるのが聞こえる。
「やはり、何かあるのですか?」
優しい声で語られる、素直で真面目な疑問。
危険だと、振り切って帰るべきだと思いながら、足が動かない。いつも自分を、凍った静寂に引き戻してくれる警鐘が、今は鳴ろうとしない。
クラヴィスは、観念したように目を閉じ、流れ出すままに言葉を発した。
「公に認められている訳ではない。だが、こうしていると感じられる。それに、伝説もある……」
「伝説……?」
「記録にさえ残らぬ遠い過去に、森の湖の精霊から、持つ者に大きな祝福を与える宝玉を授かった者がいる、という昔語りだ。それは、宇宙の危機を救った勇者とも、あるいは……」
黒髪の青年は、そこで唇を止めた。
(あるいは、数々の障害を乗り越えて結ばれた恋人たちとも言われている……)
光り輝く髪の下から、激しい眼差しが、時を越えて追いかけてくる。
薄いヴェールの奥で、見開かれたままの大きな瞳。
伝説の続きがもたらす苦さが、深い意識を呼び覚まし、ほんの少し温まりかけた心を、容赦なく冷やしていく。
(乗り越えるどころか……彼女を傷つける事しか、できなかった……)
<近づいてはならない>
「クラヴィス様?」
二、三歩の距離まで近づいていたリュミエールが、心配そうに呼びかけてくる。
<少しでも安らぎに、喜びに、結びつくものには>
闇の警鐘を取り戻した黒髪の守護聖は、無言で水から手を引き上げた。
(癒し……か)
留まる術もなく指先を滑り落ち、黒い曲面に吸い込まれていく、水滴。
心身に残る疲労の大きさを、改めて感じ取りながら、クラヴィスは自らを嘲る笑みを浮かべる。
(……その様なものを得る資格が、己にあるとでも、思っていたのか?)
闇の守護聖は、冷たい声で、投げやりに話を終わらせた。
「何でもない……ただ、伝説というものには、常にいくらかの真実が含まれているものだ。この話も、あるいは聖地の水が、何かの力を有する事を表しているのかも知れぬ」
「はい……」
少年の微笑に差す、不審と当惑の表情。
疲れる仕事の後に、わざわざこの自分などに付いてきて、あげく無味乾燥な会話に付き合わされたのを、後悔しているのだろう。
(失望を隠さず立ち去るがいい、私もまた、静かな闇の中に戻って行くのだから……)
だが、目の前の青い瞳が、徐々に輝きを帯びていくのに気づいたクラヴィスは、驚きのあまり、思わず問いかけていた。
「……どうした?」
リュミエールは、微かに気後れを見せながら、それでも嬉しそうに答える。
「はい……教えていただきたい事があります」
「……何だ?」
予期できない展開の連続に、黒衣の守護聖は相手に向き直り、聞き返す。
僅かに躊躇う時間を経て、若い水の守護聖は、思い切ったように聞いてきた。
「闇とは何なのか……それを司るクラヴィス様のお言葉で、お聞きしたいのです」
夜闇を取り込んで漆黒となった目を見開き、クラヴィスはただ相手を見つめていた。
(それが……お前の求めだというのか?)
闇を知りたい、それも、この自分の言葉で − これまで一度も言われた事のないその願いは、単なる好奇心を越えて、クラヴィスという存在自体に近づき、理解したいという望みであるように響いてくる。
(お前は、この私を……)
<近づいてはならない。
少しでも安らぎに、喜びに、結びつくものには。>
動きかけた心が、警鐘の響きに凍り付く。
先刻よりも更に急激に、時さえ拒むかのように乾き、静止する。
傷つけた思い、報えなかった眼差し、引き裂き続けてきた心。
<近づいてはならない。>
相手の心が、誠実であればあるほど、美しければ美しいほど……
短い沈黙の後、黒髪の青年は語りだした。
闇の重さと恐ろしさを。それが生きる者によって、どれほど否定されるべきものであり、実際に否定され続けてきたかを。
(これで分かるだろう……私に近づく事など意味がない、いや、それ以下であるのだと)
「それでは、あまりに……」
訴えかけるような少年の声も、幻滅に力を失っているようだ。
(早く去るがいい、光輝く世界へ……癒しの水が、底知れぬ闇に染まる前に)
黒衣の守護聖は、更に説いた。
闇の力の多くが滅びを司るものである事、水も含め他の八つのサクリアとは、大きく隔たった存在である事を。
平坦な声で、表情もなく説き続けた。
思いがけず多くの言葉を語ったせいか、先刻の疲れが蘇ってしまったようだ。
話し終えたクラヴィスは、噴水の縁に手を着くと、崩れ落ちるように腰を下ろした。
水に癒される事さえ諦めた暗色の瞳に、遠い星々の光だけが差している。
その恒星系に生きる人々を祝福するかのような、美しい煌めき。女王……や守護聖たちのサクリアが導く、輝かしい無数の生。輝かしい無数の前進。
ただ一つ、闇のサクリアのみが、それに逆らい、留めようとする……
必要な − むしろ重要な − ものとはいえ、他の全てのサクリアと相反するその在りようを、かつて辛いと感じていた事もあったのだろう。
長すぎる時間の中で、傷の表面だけを塗り重ねたあげく、今ではもう、漫然とした虚無感しか覚えなくなっているが。
こうして、他の全ての存在から隔たって過ごしてきたのだし、過ごしていくのだろう。
背後に、そして恐らくは前途にも横たわる、計り知れない時間の中を。
「クラヴィスさま……」
震える細い声が、耳に届く。
まだその場にリュミエールが立っているのに気づき、闇の守護聖は訝しげに振り返る。
優しく繊細な面に、深い憂いと感銘 − 何に対してか知れぬが − の表情を浮かべた少年は、静かにその場に跪くと、クラヴィスの手を自らの額に押し戴いた。
(何……!)
自分より一回り細い指の震えを感じながら、黒衣の青年は呆然として相手を見つめた。
「クラヴィス様……聖地の水が癒しの力を持つのなら、私にもその力が、少しはあるかもしれません。ですから……」
祈るように伏せられた顔から、思いの強さに掠れかかった声が流れてくる。
「……おこがましいのを承知で申し上げます、どうか、お側にいる事をお許しください。あなた様を癒してさし上げたいと、そう願う事を、私にお許しください!」
心が跪いている。
心が見上げている。
上に向かって、この自分に向かって、心が、手を差し伸べている。
クラヴィスは、信じられないという面もちで、青銀の髪を見つめていた。
(なぜ……この手は……)
今までにも、幾人かはあった。
そのままでいてはいけないと、救いたい、直したいと、変えたいと言いながら、この自分に手を差し伸べてきた者たちが。
だがいつも、求められる変化の大きさに戸惑っている間に、苛立ちや諦めの呟きだけを残して、それらの手は引き戻されてしまった。
ただ一度だけ、自分の求めに応えて伸べられた手も……もっと必要としてくれる者の光になりたいと、去っていってしまった。
そして、それらの手は全て、上から差し下ろされていた。
(癒し……救いの手とは、下に向かって伸べられるものではなかったのか?私を見下ろす者によって、私を否定しながら、高みから施されるものではなかったのか?)
高みの相応しい者でありながら、施すどころか、むしろ自らがそれを乞うかのように、少年は一心に頭を垂れ続けている。
この様な事は、これまで絶えて無かった。
(なぜ……だ)
この様に手を伸べて来た者は、これまで一人も無かった……
(お前は、なぜ……)
安らぎや喜びに結びつくかどうか、それを判断する事さえ忘れるほどの驚愕に、警鐘も鳴らない沈黙だけが、クラヴィスの中を流れていく。
そうして、疲労のなせる業か、心がそのまま言葉となって出ていくのを、彼は余所事のように聞いていた。
「……好きにするがいい」
ささやかな、そして途方もなく大きなこの誓いを、流れる水と星々だけが、証人のように見守っていた。