闇の章・3ー2


2.


 どれほど時が経ったのだろう、心を責め立てる戒めがようやくその刃を収め始めた頃、低い声がクラヴィスの耳に届いた。

「恐れ入りますが、クラヴィス様……リュミエール様が訪ねていらっしゃいました。お通ししても宜しゅうございますか」

 顔を上げると、心配そうな表情をした家令が目の前に立っている。闇の守護聖は、回復しきっていない頭で相手の言葉を思い出してみたが、その意味がなかなかつかめなかった。

「水の守護聖リュミエール様が、いらっしゃっています」

話が通じていないのを察したのか、家令はゆっくりと繰り返した。

 それでもクラヴィスには、まだ事情が飲み込めない。

(リュミエールは今日、緑の館に行くと……そう言っていたはずだ……)

 長い沈黙を家令は辛抱強く耐えていたが、さすがに来客を待たせ過ぎてはいけないと思ったのだろう、やがて遠慮がちに言いだした。

「ご気分が優れないとお伝えして、お引取り願いましょうか」

「いや……」

混乱しながらも、ようやく何が起きているかだけは理解し始めた館主は、短く指示を出した。

「……通せ」




 どこに行ってきたのか、リュミエールの全身からは日向の温かさが、残り香のように漂っていた。そのためだろうか、常とはいくらか雰囲気が違って感じられる。

「……昨日申し上げたお茶会ですが、もしお気が変わられたらと思いまして、こうしてお誘いに参りました」

 自分に向けられた言葉をまたもや理解できず、闇の守護聖は、黙って相手を見返した。既に断られた話を、この若者は、再び持ち出そうというのだろうか。今までそのような事は一度もなかったはずだ。束の間沈んだ様子を見せてもすぐ気を取り直し、誘いを掛ける前と変わらない態度をとるのが常だった──

 その時クラヴィスは、相手のどこがこれまでと違うのか気づいた。いつも穏やかな微笑の奥に現れていた心許なさそうな表情が、今は見当たらないのだ。

(お前は……)

眩しい思いで、彼は水の守護聖を見返した。

 リュミエールは、変わり始めている。怯えてばかりいた繊細な少年から、揺らぎない自信を備えた青年へと──聖地に来てからの年月を思えば、ごく自然な事だが──成長し始めているのだ。

(いずれ、安らぎのサクリアに身を浸す必要も……訪ね来る事も、なくなっていくのか)

心中の呟きが、驚くほど虚ろに響き渡る。長く続いた習慣が途絶えてしまうのが、億劫に感じられるのだろうか。だが、必要もないのに闇を関わろうとする者など居ないのだし、また、居るべきでもないはずだ。

 そう思う心の裏から、かつて耳に届いた言葉が蘇ってくる。

『……あなた様を癒してさし上げたいと、そう願う事を、私にお許しください!』

クラヴィスは、その声を黙殺しようとした。闇のサクリアへの代償ならば、もう充分過ぎるほど受け取っている。たとえあれが当時のリュミエールの本心であったとしても、幾年前か知れぬ、たった一度の言葉に縛られる事はない。これからはもっと楽しめる、そして自身のためになる者たちとの交流を深めていけばいい──例えば、今日の茶会のように。

 気の迷いを抑えるように、クラヴィスは呼鈴に手を伸ばした。緑の館に出向けば、この不快感も収まるかもしれない。リュミエールが他の者たちと交流する様を目の当たりにすれば、自分の出る幕などない事が、はっきり分かるだろう。

 その時、リュミエールが突然呼びかけてきた。

「クラヴィス様!」

「……何だ」

切迫した声の響きが、先刻黙殺した呼びかけと重なって、クラヴィスは思わず指を止めた。

 だが、返ってきたのは思いがけない言葉だった。

「あの、クラヴィス様がいらっしゃるのなら、取っておきの酒を開けようと、カティス様が仰っていましたが……」

今日はどういう星巡りになっているのだろうと、闇の守護聖はため息をついた。カティスが酒を好む者なのは覚えているが、それをこの自分のために開けるなど、ましてその事を伝言してくるなど、俄かには信じられない。

「……一体、どうしたというのだ」

そもそもリュミエール以外、自分と関わろうとする者など久しく無かったというのに、その唯一の関わりが終わろうという時──終わりかけているのを確かめに行こうという時になって、当の訪問先が、まるで自分と関わりたがっているかのような言葉を託してくる。

 もはや幾度目とも知れない混乱の中、クラヴィスは呼鈴のボタンの感触を痛いほど意識していた。これを押せば何かが変わり始めるのか、それとも、変化を止める事になるのだろうか。いっそ警鐘でも鳴れば迷う余地も失せるだろうに、今に限って自分の意志で選ばなければならないのか。

 どちらとも決めかねて眼を伏せると、真っ直ぐに見つめてくる視線が感じられた。緑の館への同行がどういう意味を持つのかは分からないが、この若者がそれを望んでいる事だけは確かだろう。

(ならば……)

闇の守護聖はボタンを押すと、やってきた家令に告げた。

「……緑の館へ行く」

これでいい。何が起こるかは分からないが、少なくともリュミエールの望みだけは叶えてやれる。自分のような者の為し得る事としては、上等すぎるくらいではないか。

 家令は一瞬棒立ちになっていたが、すぐ平静な態度に戻って答えた。

「畏まりました、さっそく外出着をお出しいたします。馬車もご用意いたしますか、それとも、リュミエール様の馬車にご同乗で行かれるのでしょうか?」

予想外の質問に、闇の守護聖は思わず来客を振り向いた。

「 同乗……するのか?」

「……は、はい」

呆然とした表情に、まるで反射的に答えているかのような声。望みがかなった割には嬉しそうに見えないものだと思いながら、クラヴィスは家令に向き直った。

「馬車はいらないようだ。着替えを」

そう言うと闇の守護聖は立ち上がり、訪問準備という不慣れな作業に取り掛かったのだった。



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