闇の章・3ー3
3.
淡くも落ち着いた色合いの馬車が、健やかに茂る木々の間を抜け、美しい庭に入っていく。
「あの……緑の館の庭に入りました。もうすぐ着きます」
向かいの席から、水の守護聖が言葉をかけてくる。馬車に乗ってから一言の会話もなかったためか、声が少しだけ掠れているようだ。
頷いて答えると、ようやくリュミエールの面に表情が戻ってきた。窓から差す昼光の中、まるで花が開くように柔らかく明るんでいくその微笑を、クラヴィスは黙って見つめていた。
緑の守護聖は、自ら玄関の外まで出てきていた。馬車から降りてくる二人に嬉しそうな笑顔で歩み寄り、歓迎の言葉をかける。
「クラヴィス、よく来てくれたな!」
「……ああ」
どう応じたらいいのかしばらく迷った後、闇の守護聖は短く呟いた。
「さあ、入ってくれ。取っておきの酒を開けよう──それから、リュミエール」
長身の客の隣に付きながら、カティスは青年の方を振り向いた。
「感謝するよ、クラヴィスを連れてきてくれて」
「カティス様……」
背後から付いてくるリュミエールの、喜びと当惑の混ざったような声が、小さく聞こえた。
広い居間に着くと、珍しくもルヴァが、弾かれたように立ち上がるのが見えた。
「ああ、クラヴィス……本当に来てくださったんですね」
奇跡でも目の当たりにしたような表情で声をかけられ、またしても反応に困った闇の守護聖は、ただ無言で頷くしかなかった。
「飲み物を持ってくるから、好きな所に掛けていてくれ」
館主の言葉に室内を見回したクラヴィスは、座れそうな場所がいくつもあるのに気づいた。
庭に面した大きな窓の傍らには木の椅子と小卓のセットが置かれ、ルヴァのいる中央には座り心地の良さそうな安楽椅子が幾つか、低いテーブルを囲むように据えてある。さらに奥には簡単な調理設備のついたカウンター式のホームバーが設けられ、そこにもスツールが備えてある。
壁や調度のほとんどが木目をそのまま活かした造りになっているのは、この規模の館としては変わっているようにも思えるが、素朴な風合いのクッションや絨毯類と相まって、全体に温かで寛ぎやすそうな雰囲気を醸し出しているようだ。
自分から一番近い安楽椅子に身を沈めると、ルヴァとリュミエールも同じテーブルを囲むように腰を下ろし、酒瓶と四つのグラスを手にしたカティスがそれに続いた。
「これなんだ。今、封を切りがてら味見してみたが、結構いけると思うぞ」
深い色で満たされたグラスを受け取ると、クラヴィスは短く香りを楽しみ、そして口をつけた。
「どうだ?」
「……旨い」
自分でも驚くほど即座に、そして素直に返事が出た。
「気に入ってもらえて良かったよ」
館主は上機嫌で頷きながら、すでに新たなグラスに酒を注ぎ始めていた。
「ルヴァ、リュミエール、お前たちも少しどうだ?」
「はあ、そうですねー……」
曖昧に答えた地の守護聖と躊躇っている水の守護聖に、カティスは指の幅ほど中身の入ったグラスをそれぞれ渡して言った。
「じゃ、改めて──今日という日に、乾杯!」
軽くグラスを上げてから口をつけると、客たちもつられて同じ動作をする。
「あー、はい、乾杯ですね」
「乾杯……」
酒類をたしなむ習慣のなさそうなルヴァやリュミエールも、量の少なさに助けられて、何とかグラスを空けられたようだ。
クラヴィスは椅子の背に身を沈め、口腔に残った香りを楽しんでいたが、再び耳に届いた声にゆっくりと瞼を上げた。
「自家製のチーズだが、良かったらつまんでいてくれ。酒は、自分で好きなように注ぎ直していていいからな──ルヴァとリュミエールには、もう少し軽い飲み物を持って来るから、ちょっと待っていてくれよ」
クラヴィスは視線を上げ、テーブルに置かれた皿を見下ろした。何かを食べながら飲む事はあまりないのだが、用意されたチーズの固く熟しきった様子は、確かにこの酒に合いそうだ。
(それにしても……)
きびきびした動作でカウンターに向かう緑の守護聖を、闇の守護聖はぼんやりと眺めた。
人をもてなすというのが、嬉しくてたまらないようだ。旨い物を見つけ、あるいは作り、それを他の者と共に味わうのは、それほど楽しいものなのだろうか。
(食べる事……人と触れ合う事……)
人としての生そのものを楽しんでいるようなカティスの姿に、クラヴィスは遥か遠い世界を眺めているような、奇妙な感慨を覚えていた。
勧められるままに酒食を口にし、誘われるままに庭を歩き、あるいは他の三人が歓談しているのを見るともなく見る。クラヴィスにとっては経験したこともない午後の過ごし方だったが、特に喜びも苦痛も感じないまま、気づけば夕食まで共にしていた。
相変わらず楽しそうなカティスに、控えめながら興の乗った様子のルヴァ。夢を見ているような面持ちで、時折こちらを見つめては嬉しそうに微笑むリュミエール。
(やはり、このような過ごし方が好きなのだな……)
どこか空虚な気持ちで若者を眺めていたクラヴィスは、その面がはっとした表情になったのに気づいて我に返った。
「……すみません、馬車に置いてきてしまいました。すぐに取ってまいります」
「悪いな。じゃ、車庫まで案内しよう」
会話をよく聞いていなかったが、どうやらリュミエールが馬車に何かを取りに行く事になったらしい。
二人が食堂を出ていくのを見送ると、間もなく大きな笑い声が聞こえてきた。思わずそちらに目を向けたクラヴィスは、扉の開けられたままの戸口越しに、頭を反らして笑う緑の守護聖と、顔を赤らめて黙り込む水の守護聖の姿を見出した。
困ったような、それでいて幸福そうな微妙な表情が、この館についた時の彼らの会話を思い出させた。何か言外に分かり合っているような、無言の内に通じ合っているような感覚。
(そうだった……それを確かめるために来たのだった……)
リュミエールが成長した事、自分の下から離れていくであろう事──予想していたそれらを確認するために来たというのに、遠ざかっていく二人の影を、クラヴィスは直視していられなかった。
微かだが熱を帯びたような重苦しさが、心の底に広がっていく。それは、いつもの鋭い痛みとは、全く異なる感覚だった。
程なくリュミエールはカティスに伴われて戻ってくると、馬車から取ってきた竪琴を奏で始めた。その音をきくうちに、闇の守護聖は次第に自分の心が普段の様子を取り戻していくのが分かった。
ひとしきり演奏が終わると、それを合図としたかのように客たちは暇を告げ、クラヴィスは再び水の守護聖の馬車に乗る事になった。
往路と同じように、言葉を交わす事もなく闇の館に着くと、青銀の髪の若者は静かに口を開いた。
「今日はお付き合い下さって、本当にありがとうございました……宜しかったらまた明日、演奏を聞いていただけますか」
いつものように問いかけられ、いつものように頷いて応じる。
「ありがとうございます。お休みなさいませ」
挨拶するリュミエールの面には、まだ夢を見ているような表情が浮かんでいた。
淡い色の馬車が闇に消えていくのを背に感じながら、クラヴィスは自らの館に入っていった。
(いずれ遠からず、昼の演奏にも来なくなるのだろう……)
だが、それからいくら日が経っても、リュミエールが闇の守護聖から離れていく気配はなかった。しばらくそれを不審に思っていたクラヴィスも、やがてその状態に慣れ、前と変わらず若者の訪問を受け入れるようになっていた。
ただ、あの正体の知れない胸苦しさの記憶だけは、いくら時が経っても、なぜか薄らごうとはしなかった。