闇の章・3−10


10.


 緑美しい、しかし事情を知る者の眼には生気の不安定さが隠せない景色に囲まれながら、そして半歩後をついてくる青年の存在を感じながら、闇の守護聖は歩を運び続けた。

 木々はしだいにその間隔を狭め、道は細く曲がりがちになっていく。遠くに聞こえてくる水音が、歩く者の心を潤しながら、もう湖が遠くない事を教えてくれる。

 突然、前方に何かを感じて、クラヴィスは足を止めた。眩しすぎる光が目を傷めるように、心を圧してくる強いサクリア。逃れる術を持たない彼は、ただ降伏のしるしとしてその場に立ち尽くし、自衛の壁を心に巡らせ始める。

「……ジュリアス様」

閉まりかけた遮断壁の、その最後の隙間から、不安そうな呟きが聞こえてきた。




 姿を現した光の守護聖は、やはり緑のサクリアの変調と、その意味するところを悟っているようだった。彼の表情と言葉がそう語っているのを、クラヴィスは意識の外側で感じ取っていた。

 だが、これ以上ジュリアスに注意を向けたならば、またあの恐ろしい痛みが襲ってくるだろう。感情と切り離しておいた視覚が、危険がなくなったのを確認するまで、クラヴィスはひたすらに自らの心を遠くへ飛ばしていた。

 リュミエールと短い会話を交わすと、間もなく首座の守護聖は立ち去った。慎重に少しずつ意識を戻しながら、クラヴィスは、かつてこの緊張関係に干渉しようとした者があった事を思い出していた。

 決して差し出がましく感じられない独特のやり方で、クラヴィスとジュリアスが衝突しないよう気を砕いていたのは、ほかならぬ緑の守護聖カティスだった。何かと間に入っては双方の意思を上手に伝えてくれるので、少なくとも自分にとっては、強い日差しを遮る緑陰のように、とても助けとなっていたのを覚えている。

 しかし結局、自分たちの関係は改善されず、いつかカティスも諦めてしまったようだった。

 クラヴィスは、心中で溜息をついた。仕方のない事だろう。仲立ちをしようにも、ジュリアスには何の落ち度もないのだから。この関係が険悪である理由は、ひとえに自分にある。ただ、それが何であるのかが突き止められないだけだ。

(いや、突き止められないのではなく……考えられないのだ)

考えようとすると、あの警鐘が襲撃のように鳴り響いてしまう。“彼女”の事を思う時と同じほど強く、そして理由のわからない恐れに、意志はたちまち押しつぶされてしまう。

 前触れも無く、クラヴィスは再び歩き出した。早く湖に行かなければ。再び蘇りそうなあの警鐘が鳴り始める前に、聖地の水の近くに行かなければ。この恐れから逃れなければ。




 ようやく湖畔にたどり着くと、クラヴィスは疲れたように木陰に腰を下ろした。いつもどおり、こうして水面を見つめていれば、ほどなく恐怖は去っていくだろう。

 視界の隅には、青銀の髪の青年が滝に向かう姿が映っている。ぼんやりとそれを見送ると、闇の守護聖は双眸を閉じ、深い息をついた。

 時折の風にそよぐ草葉の外は音を出すものもない、静かで穏やかな闇。湖から立ち上る気が柔らかく自分を包み、癒してくれるのに任せながら、クラヴィスは心を憩わせていた。

 だが間もなくその闇の底に、奇妙な波が寄せられてきた。音とも呼べぬほど密やかで細かい、無数の破裂音。草を踏みながら近づいてくる、ゆっくりだが一定でない足取り。

 それが水の守護聖のものでありながら、尋常でない乱れを生じているのに気づくと、クラヴィスは眼を開けた。

 青銀の髪の青年が、すぐ前に立っている。予想もしなかったものを見出したように、その海色の瞳を見開いて、掠れた声で問うてくる。

「カティス様のサクリアが……弱まり始めているのですか」

思ったより早く気づかれた事に驚きながら、闇の守護聖は後悔を覚えていた。やはり、同行を許すべきではなかったのだ。これからこの青年が悲しむと思うだけで、不愉快な気持ちになってくるのだから。

「もう、気づいたのか」

仕方なく返事をすると、リュミエールの面は蒼白になった。どのような思いを巡らせているのか、虚空に向けられた視線が、彷徨うように動いている。それはやがて、クラヴィスの姿を捉えたかと思うと、体ごとすうっと沈み始めた。

(だめだ……!)

闇の守護聖はとっさに身を起こし、倒れてくる青年の腕をつかんだ。立ち上がる間はなかったが、地に両膝をついたところで何とか止められたようだ。

 水の守護聖は面を伏せたまま、がっくりとうなだれている。めまいを起こすほどの悲しみだったのかと、どこか苦々しく思いながら、クラヴィスはもう一方の手で相手の肩を押さえ、片膝をついた姿勢でその躯を支えた。

 淡色の衣に包まれた肩が、息のかかるほど近くで、浅く上下している。いつもは襟に隠されている白い首筋が、流れ落ちる青銀の髪の間から覗いている。

 初めて間近で見る姿に、両の手を伝わってくる体温や感触に、闇の守護聖は酔いにも似た不思議な感覚をおぼえはじめていた。




 短い呼吸を数回繰り返し、リュミエールは落ち着きを取り戻したようだった。めまいも治まったのだろう、その視線がゆっくりと上がり、すぐ眼の前にいる者へと向けられる。

 だが彼の繊細な面は、たちまち、悪夢を見ているようなそれへと変わっていった。普段の穏やかさからは想像もつかないほどの悲しみと苦悶、そして何かを訴えるような、激しい眼差し。

 見た事もない表情にクラヴィスが当惑していると、青年は急にもがき始めた。力の入らない体ではあったが、逃れようとする唐突な動きに、肩を押さえていた手が弾かれてしまう。

 だが闇の守護聖は、もう片方の手を放そうとしなかった。それどころか力を強め、縛めるかのように堅くリュミエールの腕を捕らえていた。

 相手の身の安全を思ってではなく、突然湧き出した衝動のために。




 ──放したくない。



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