闇の章・3−11
11.
青年の躯が抵抗を止めたのを、クラヴィスの手は感じ取った。その眼差しから激しさが去り、驚きと当惑の表情が浮かび始めているのも見て取れた。
だが、小ぶりな唇が語りかけてくる言葉は、彼の耳に届かなかった。何かに憑かれたような心持ちで、クラヴィスはただ相手の双眸を見つめていた。
そして間もなく、それらが痛みに耐えかねたように閉ざされてしまうと、彼は理不尽な怒りに駆られて指に力を込めた。
悲鳴のような喘ぎが、鼓膜に突き刺さる。
はっとして手を放すと、にわかに周囲の光景が視界に入り込んできた。麗らかな昼の光の中、草地に両膝をついた青年が、苦しそうに上腕を押さえている。
(私は……何を……)
己のしていた事を自覚するのに手間取っていると、先に落ち着きを取り戻したらしいリュミエールが、心配そうな視線を向けてきた。
困惑しながら見返したクラヴィスは、突然、相手が例えようもなく美しい事に気づいた。姿かたちだけではなく、長い時間を通して伝わってきた青年の心根が、その強さも弱さも含めて美しいと、まるで不意打ちのように気づいたのだ。
だがそれは、今まで思っていた美しさとは意味を異にするものだった。人として好ましいとされる特徴を、リュミエールが心身に多く備えているのは知っている。しかし、そういう評価とは全く違う意味の、まるで心が自ら進み出て感じ取ろうとしているような、これまでにない感覚だった。
(進み出て……?)
クラヴィスは、自分の手を見下ろした。節だけを白く残して紅に染まった指が、込められていた力を物語っている。それほどに、放したくなかった。近くに感じていたかった。これまで好んできたどの景色より、追ってきたどの時間よりも強く──
(リュミエールを……)
その名を呟こうとした瞬間、彼の心を冷たい感覚が走った。
足元に深淵が口を開こうとしている。先刻の比ではない、何か取り返しのつかない事態が起ころうとしている。
はっきりと原因は分からないが──一ふと、それを突き止めたいと思った自分を、クラヴィスは狼狽と共に制した──とにかく、動かなければならない。心を逸らし、ここを離れ、起きた事を全て忘れるのだ。あの淵に呑み込まれる前に。
眼の前の事物に意識を向けないよう、慎重に草地から立ち上がると、クラヴィスは宮殿へ戻り始めた。幸いにも通いなれた場所なので、意識を飛ばしていても勝手に足が進んでいく。
日差しも緑も水音も、何も感じないように心を封じたまま、やがて彼は白亜の建物に到着した。この階段を上って少し進めば、執務室に戻る事ができる。余計な刺激から隔離され、繭のように殻のように守ってくれる、あの闇に身を潜められる。
その時、行く手を遮るように、眼の前を水が横切った。なぜここに湖が現れたのかと、クラヴィスは束の間混乱したが、すぐにそれが水の守護聖の後ろ姿なのに気づいた。
何か揉め事でもあったのだろうか、青年はその腕に年少の守護聖たちを抱きとめ、肩で大きく息をついている。湖畔での光景を思い出しそうになったクラヴィスは、無言でその脇を通り過ぎると、逃げるように執務室に入っていった。
深い闇と静寂の中に身を落ち着けると、クラヴィスは机上の水晶球に眼を向けた。
習慣のように手をかざしかけ、慌てて引き戻す。よほど強く念じでもしない限り、この透明な結晶が見せるものは予想できない。せっかく忘れようとしている一連の出来事が──そのどこかで、自分は規を踏み外しかけたのだ──万が一にでも映し出されてしまったら。
考えただけで、心が竦み上がる。
いったい、どれほどの激しさで警鐘が鳴り出す事だろう。叱責に苛まれ、体も意識も動かせぬほどの罪悪感に捉われながら、どれほど長い時を過ごさなければならない事だろう。
闇の部屋の奥深く、恐怖に捉われながら、ただ時が過ぎるのを待ち続けている──まるで臆病な虫のようだと、クラヴィスは思った。