闇の章・3−12


12.


 それから数週間後、緑の守護聖の退任が正式に発表され、次いで後任のマルセルという少年が聖地にやってきた。不安定ながら瑞々しい彼のサクリアはたちまち周囲に影響を与え始め、聖地の草木に翳りを感じていた者たちも、それが元に戻りだしたのを見て取り、安堵していた。




 そんなある日、例によって水の守護聖の補佐を受けながら執務をこなしていたクラヴィスは、不意に何かを感じて面を上げた。

 リュミエールがすぐ側から、もの思わしげな表情でこちらを見つめている。しかし次の瞬間、青年は我に返ったように眼を見開くと、ぎこちない動きで書類棚に向き直ってしまった。

 闇の守護聖は束の間不審を覚えたが、さほど気にとめる事もなく、執務に意識を戻していった。




 また別の日、クラヴィスが王立研究院を訪れると、引継ぎでもしていたのだろう、現役と次期緑の守護聖たちが、連れ立って出てくるところだった。軽い会釈を交わしながらすれ違い、ホールの奥へと足を踏み入れていった彼の前に、水の守護聖の立ち姿が見えてきた。

 だがその双眸は先日と同じく、何事か考え込むような表情を浮かべながら、今はまっすぐカティスの背に向けられていた。

(……リュミエール?)

足を止めるとすぐに青年はこちらに気づいたらしく、向き直って一礼をした。だが最初に彼の面に現れたのは、いつもの嬉しそうな微笑ではなく、先刻よりいっそう深刻な煩悶の表情であった。




 次第にクラヴィスは、落ち着かない気持ちになってきた。他人の視線など意識した事もなかったが、これほど身近な者に意味ありげに見つめられ──対象は必ずしも自分だけとは限らないようだったが──しかもそれが、日を追うにつれて頻度を増していくとあっては、さすがに無視していられなくなってくる。




 緑の守護聖交替式典まであと二日という午後、闇の守護聖は傍らで補佐を勤めている青年に、ついに問いかけた。

「……どうしたのだ」

書類を整理しているはずのリュミエールが、先刻から手を止めてこちらを見つめているのが、眼を向けずとも感じられる。

 だが水の守護聖の面には、予期していたような後ろめたさは現れず、ただ慎み深い驚きが声となって流れてきただけであった。

「はい、あの……何でしょうか」

クラヴィスは言葉に詰まった。どうやらこの青年は、人を見つめていた事も、物思いに耽っていた事も自覚していなかったらしい。

 闇の守護聖は為す術もなく、頭を振って会話を終わらせた。リュミエールはしばらく戸惑っていたようだったが、やがて諦めたように、再び書類を整理し始めた。

 しばらくすると、聞きなれた優しい声が、何事もなかったかのように流れてくる。

「クラヴィス様、こちらで今日の分は終わりです」

差し出された書類を受け取ると、クラヴィスはふと机上の時計に眼を向けた。そこには、執務時間の終わりに近い時刻が表示されている。恐らく外では、もう日が暮れ始めているのだろう。

 つられるようにそちらを見やった水の守護聖が、慌てた様子もなく言葉を重ねる。

「もう、このような時間になっていたのですね……他にご用がなければ、戻ってよろしいでしょうか」

リュミエールはいつも、自らの執務を早めに終わらせて補佐にきていたが、定時前にはいったん自室に戻り、臨時の書類が届けられていないか確認するのが常だった。

 特に残らせるような用事もなかったので、クラヴィスは黙って頷いてみせる。青銀の髪の青年は丁寧に礼を取ると、挨拶の言葉を残して闇の執務室を辞していった。




 間もなく、時計が執務時間の終わりを告げた。補佐のおかげで書類は全てできあがっていたが、闇の守護聖は執務机から動こうとしなかった。

 やはり、気持ちが落ち着かない。あの視線を思い出すだけで──それが誰に向けられたものであろうと──怒りのような不安のような、訳の分からない苛立ちが生じてくる。

 そもそも、一体どのような悩みを抱いたら、あれほど無自覚に人を凝視できるのだろう。

 今のところ、宇宙に深刻な問題は生じていないはずだ。緑の守護聖の交替は大事だが、引継ぎは順調に行われている。リュミエールが他人との間に問題を起こすとは考えにくいし、健康を害している様子もない。

 それなのに、どうしてあのような物思わし気な表情を見せるのだろう。なぜあのように人を見つめてくるのだろう。思い出すだけで、気持ちが落ち着かなくなってくる……




 同じ路を幾巡もした考えが、一つの方向に定まっていくまで、しばらく時間が掛かった。

(やはり、また……動くしかない、か)

重い腰をあげると、クラヴィスは闇の部屋の出口へと歩き出した。

 他人の悩みに干渉するなど、自分の為すこととは到底思われないが、このままではこちらの神経がもたなくなってしまいそうだ。

 なぜあのように人を見るのかと、何か悩むような問題でもあるのかと、今度こそはっきり問いただす。それで少なくとも、己の状態を自覚させる事はできるだろう。

 もし悩みの内容を話してきたら、ただ聞いてやればいい。何の解決にも結びつきはしないだろうが、リュミエールもそのような期待はしていないはずだ。

 とにかく今後、あの者が視線に気をつけるようになれば、それでいい。考え事をする際の癖なのかもしれないが、もう二度とあのような表情を見たくはない。




 だが水の執務室には、灯りも人の姿もなかった。窓から差し始めた月の光に、すでに相手が帰宅している時間だと気づくと、クラヴィスはやむなく用件を翌日に伸ばす事にして、宮殿の車寄せに向かった。

 馬車の座席に身を沈めた途端、彼は常にない疲労を感じた。慣れない考え事をしたせいだろうか、頭の芯が疼くように痛んでいる。他人が悩みを抱えているからといって、悩む時の癖で視線を向けられるからといって、人はここまで消耗するものなのだろうか。

(リュミエール……)

心中の呼びかけに答えるように、その姿が瞼に蘇ってくる。穏やかな面差しが色を失い、遠く切ない表情を浮かべている。温かな生気の去った美しい瞳が、冬の海のように暗く揺れている。

 胸が苦しい。これ以上思い出すのは耐えられない。少しでも早く話をつけてしまいたい。

 逃れるように窓外を見ると、馬車はちょうど大きな三叉路に差し掛かったところであった。聖地の中心部から走っている街道が、ここで細い二本の道へと分かれていく。今入った左の道は、すぐに木立に覆われるようになり、やがてそれが森となった頃、闇の館が前方に姿を現すのだ。

 だがもし、もう一本の道を行ったならば──

 クラヴィスは、やにわにその白い手を伸ばすと、座席の脇にあるボタンを押した。危険を生じない最短の時間で馬車が止まり、御者台から緊張した声が聞こえてくる。

「クラヴィス様、ただいま停車の合図を下されましたか」

「……うむ」

ようやく聞き取れるほどの呟きを返すと、闇の守護聖は自ら扉を開け、車外に降り立った。

 すでに木立の中に入り込んでいたので、馬車の周辺は暗かったが、振り返り見た三叉路は、白くくっきりと月明かりに照らされている。

 これほど心が波立つのならば、今からでもあの右の道に向かうべきではないだろうか。明日といわずすぐに水の館を訪問し、リュミエールと話をつけた方がいいのではないのだろうか。

 とはいえ、そうするにはかなりの思い切りがいるのも事実である。そこまでする必要があるのかという迷いと、このまま気持ちが落ち着かなかったらという恐れを二つながらに抱え、クラヴィスはしばしその場に立ち尽くしていた。

 そしてようやく、訪問の方に意思が固まりかけてきた時、遠くから馬車の音が響いてきた。次第に近づいてきたそれが、三叉路を過ぎり街道を遠ざかっていくのを、闇の守護聖はじっと見つめていた。先方からこちらは見えなかったようだが、月に照らされた瀟洒な姿が、はっきりとその所有者を現していたのだ。

(リュミエール……!)

まさか平日の夜に外出しようとは、思ってもみなかった。いったいどこに、何のために出かけたのか、クラヴィスには見当もつかなかった。

 だが、それが当然というものだろう。人にはそれぞれの都合があり、誰もが自分の必要と意思によって動いている。リュミエールにも彼なりの理由があって、自由な時間を自由に過ごしているというだけの事なのだ。

 そう考えてもなお納得できない自分を、クラヴィスは持て余していた。理性では分かっているというのに、心が受け付けられない。まるで自分の時間の一部が勝手に進みだしてしまったかのように、神経が軋んでいる。歪み、解れかけている。

 どうしたというのだろう。あの青年を、自分はいったい何だと思っていたのだろう。いつでも手の届くところにある温かな空気か、心地よい響きか、芳しい香か。そのように捉えるようになっていたからこそ、相手が一人の人間だと思い知らされただけで、これほど動揺してしまうのだろうか。

 愚かな事だ。あの者とてただの、一人の他人に過ぎぬものを。




 そう思った瞬間、クラヴィスの視界は闇に閉ざされた。足元から忍び寄るひんやりした気配に、彼はかつて際どくも回避した深淵が、今度こそ自分を飲み込もうとしているのを感じていた。


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