13.
果てもない闇の底へ、頭から落下していく感覚。凍えて自由の利かない心に、既に言葉の形さえ取らなくなった呵責の群れが、容赦なく襲いかかってくる。
激しい痛みに朦朧としながら、クラヴィスはようやく気づき始めた。リュミエールが一人の独立した人間だという、いわば当然の事実から、自分がなぜ眼を逸らし続けてきたのか──
それを認めてしまえば、他人を受け入れていたと認める事になるからだ。
いかなる幸いも禁じられた身でありながら、そこに繋がりかねない“人との関り”というものを持ってしまっていた。側にいて当然と感じられるほど、いなければ平常とは思われぬほどに、相手の存在を自らに溶け込ませていた。否定も無視もできないほど明らかな形で、今、その罪状が突きつけられたのだ。
抵抗する力もなく、まっすぐ暗黒に沈んでいく。まるで、進退も叶わぬ沼地の奥深くまで歩み込んでしまった者のように。あるいは、既に沼に没しかけている者のように。
(なぜ……鳴らぬ……)
あれほど恐れていた警鐘を、クラヴィスは縋る思いで捜し求めた。だが朧気に分かったのは、それが鳴るべき地点を、自分がとうに過ぎてしまっているという事であった。
花を愛でるのと変わらないと、人同士としての感情などないと思い込みながら。無意識に暗示をかけ、神経がそこに向かないよう自らを欺きながら。
なのに、倒れかけたリュミエールを抱きとめた時、この手が暴いてしまったのだ。相手が血や肉、そして意思を備えた一個の人間だという事を。
肌の温度も、抗う躯の感触も、痛いほどの生々しさでその真実を訴えていた。だからこそ自分は危険を察知し、とっさに心を封じたのだ。
しかしそれも、僅かな先延ばしにしかならなかった。いくら気づかぬふりをしようと、あれ以降、心が思いがけない動きをするようになってしまったのだから。リュミエールの表情が気に掛かってならず、果てにこちらから働きかけさえしていた。いずれも、以前の自分にはおよそありえなかった事ばかりではないか。
今ならば分かる、あの時湖畔で気づいたのは、単なる美しさなどではなかったと。久しく美という概念を通してしか抱いてこなかったがゆえに、そう思い込んでしまったのだろうが、あれは──あれは、惹かれるという感情だった。
親愛や敬慕、恋情といった想いの基となり核となるもの。そのいずれになるとも知れぬ萌芽でありながら、どのような集団からも相手を際立たせ、追い求めさせるもの。執着させ思考を奪うもの。そして多くの場合、人に喜びをもたらすもの。意図していたか否かに関わらず、自分は明らかに、あの青年によって心の幸福を得ようとしていたのだ。
爪先に鋭い冷たさを感じて、クラヴィスの意識は僅かに現を向いた。ふと見下ろせば、月光を受けた細い水面が足元で白く煌いている。どうやら知らないうちに、小川に片足を踏み入れていたようだ。
(ここ……は……?)
闇の守護聖は、ぼんやりと辺りを見回した。
木々に囲まれてはいるが、馬車も小道も視界にはなく、ただ闇の森の輪郭がぼんやり月明かりに浮かび上がっているのが、遠くの方に見えるだけである。どうやら物思いに耽る時の習慣で、一人道を外れて歩き続けていたらしい。
だが、クラヴィスが自分の意志で考えられたのは、そこまでだった。高熱にうなされる者が束の間の覚醒を経て混濁に戻るように、彼の意識は再び、闇の奥底へと引き摺り下ろされていった。
幾万もの鞭にも勝る叱責が、無力な心に打ち下ろされる。巨大な塊と思われたその一つ一つが、次第に言葉として感じ分けられるようになってきたのは、痛みに慣れてきたからだろうか。
だからといってそれが和らぐ事はなく、むしろ、より深くまで達するようになっただけなのだが。
許されざる者。幸福という、理由を確かめる資格さえ持たぬほど固く禁じられたものに、由々しくも手を伸ばそうとしていた、重罪人。
(気づいて……いなかったのだ……)
本能的に痛みを避けようとして、無駄と分かっている釈明の言葉を、心が呟く。
結局いつかは、こうなる運命だったのだろう。知らない間に──恐らくは、出会ってからの長い年月を通じて──起き続けてきた心の変化が、湖畔での出来事をきっかけとして、表出し始めてしまった。戻す事も留める事もできぬまま、それは隠し切れないほど大きな流れとなり、ついにこうして我が身の罪深さを露呈するに至った……
唐突に彼は、己の裡に浮かび上がろうとしているものの影を感じ取った。ここしばらく意識に上る頻度が減っていたとはいえ、常に心の最奥で息づいていた暗黒。悲鳴さえあげられないほど怯えきった心で、闇の守護聖はただ、それが現れるのを待つ事しかできなかった。
薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いている。
激しい眼差しが、時空を越えて心を責めつけてくる。
強烈な呵責が轟音となって頭に響き、恐ろしい力で胸を圧してくる。救いを求めるように伸ばした手が虚しく空をさまよい、力を失った足がゆっくりと崩れ折れていく。
サクリア放出時とは違う、明らかな害意を伴った激痛に、全身が汗を噴き出しながら、同時に血の気を失っていく。
自分が地に倒れた事に、クラヴィスは気づかなかった。ただ許されざる科人として、罪と共に自らも消え失せる事だけを願いながら、意識を失っていったのだった。