闇の章・3−14


14.


 抑えられた不自然な姿勢から解放されると、馴染みのある快適さが全身を包んだ。無意識に開いた眼は最初、何物の形も捉えなかったが、耳は数人の声を聞きとっていた。

 『お目覚め』や『ご無事』、『ご気分』といった言葉の混じった、聞き覚えのある低い響き。次いで流れてきた『医者』という言葉に反射的に頭を振り、ようやく意識がはっきりしたクラヴィスは、自分が私邸の寝室に横たわっているのに気づいた。

「しかしクラヴィス様、やはり一度、医者にお診せになった方が……」

暗さに慣れてきた眼が、次第にそこに立っている姿を判別し始める。闇の館の家僕が数人、寝台の傍らに立ち、その代表として家令が話しているようだ。

 馬車を離れた主が戻ってこないと御者が連絡してきたので、手分けして捜索していたところ、間もなく近くの森で倒れているのを見つけ、ここに運び込んだのだという。目覚め際に感じた姿勢の不自然さはきっと、人の手で躯を運ばれる感触だったのだろう。

「……いかに病のない聖地とはいえ、お体の調子を崩される事はあります。この所、ほとんどお寝みになっていらっしゃらないようですし……」

 なおも言葉を続ける家令を無視して、クラヴィスは寝台の反対側に頭を向けた。そちらに置かれたサイドテーブルに、水晶球と台座が据えられているのが眼に入る。いつもどおり執務室から携えて出た後、馬車に置いてきたはずだったが、御者が気を利かせて持ってきたのだろう。

 渋る家僕たちを身振りで下がらせると、闇の守護聖は肩肘を突いて起き上がった。白く長い指を水晶球にかざしかけ、そして止める。時折抱く感覚なのだが、この透明な結晶が、とても自分に密接であると同時に、なぜか酷く恐ろしい存在のように思われたのだ。

 手を下ろした途端に、しかし水晶球は、自ら淡い光を放ち始めた。それは間もなく不規則な濃淡を帯び始め、意味を持った形へと変わっていく。

 クラヴィスの咽の奥から、掠れた悲鳴が漏れた。




 薄暗い部屋の中で、僅かな光を吸って輝く髪の向こうから、何かを強く訴える眼が、こちらを見据えている。

 言葉も声もなく、ただその思いを眼差しに込めて、こちらを見つめ続けている。




 倒れる前に感じた恐怖と呵責とが、再び全身を締めつけてくる。またも無意識に警鐘を探し始めた心が、それが遠く及ばないものと気づいて、嘆きの叫びを上げる。

 いまだに信じられない。いくら自らを欺いていたとはいえ、あれほど痛みを伴う警鐘に気づかずに、罪のただ中へ進んでしまうとは。

(あの時と、同じ……か……)

金色の髪の少女に近づこうとした、古い刻。望みがないと思いながら、警鐘に痛めつけられるのを覚悟していながら、どうしても問うてみたかった。賭けてみたかった。
 気づかなかった訳ではなかったが、警鐘が役に立たなかった事に変わりはない……




(──何?)

身動きも取れない呵責の中にあって、彼の意識は瞬間、透明に冴え渡った。

 痛みを恐れるあまり封じていた記憶の一端が、鮮烈に蘇ってくる。想いを告げたいという一心で、彼女へと踏み出した時の、恐怖と衝動。警鐘への恐怖と、それを振り切らせた衝動。

(では……あの時すでに、警鐘は存在していたのか? この痛みもこの闇も、彼女を傷つけた罪から生まれたものではなかったのか?)

 己の裡に微小な綻びが生じたのを、クラヴィスは感じた。別の次元が、これまで気づかなかった真実が、ここから垣間見えようとしている。無間だったはずの暗黒の背後に、何か他のものが潜んでいるというのだろうか。

 だが彼は、その綻びに意識を向ける事ができなかった。激しい呵責に加え、思ってもみなかった事態に半ば恐慌をきたした心の裡では、知りたいという気持ちよりも、怖れがはるかに勝っていたのである。

 もしこの闇に、隠された正体があるのなら、それはいっそう大きく恐ろしいものに違いない。竦みきった心にとって、見たくもないものを曝け出す透明さは、刺すような痛みの源でしかない。逃げなければ。何も気づかなかったように、何も起こらなかったように、全て忘れてしまうのだ。今でさえもう、充分すぎるほど打ちのめされているのだから。

 追い詰められたようにうろたえる闇の守護聖の眼前で、水晶球がまた何かを映し始めた。まず一面の星空、それが僅かに白み始め、徐々に明るみゆく明け方の空へと変わっていく。

(夜が……終わるのか)

闇の守護聖は、放心した表情で窓を見つめた。あの厚いカーテンの向こうで、間もなく日が昇ろうとしているのだろう。いつもと同じ一日が始まり、いつものように水の守護聖が、あの優しい微笑と共に姿を現す。そして自分はまた“人との関わり”という罪を重ね、さらに厳しい罰に身を晒す事になるのだ。

 クラヴィスは身を震わせた。これ以上の痛みになど、とても耐えられるものではない。あの者を近づけるのがいけないなら、遠ざけてしまえばいいのか。部屋を訪れるのも近づくのも、話しかける事さえも禁じてしまえば、再び罪を犯さずにすむのだろうか。

「いや……だめだ」

絶望が嗄れた喉を動かし、残酷な現実を言葉にする。

 ここまで日常に入り込んだ相手を拒んで、今さら平静に過ごせるはずもない。不在によって、かえってその存在ばかり意識してしまうようでは、何にもならないではないか。心の罪を絶つためには、心からそれを追い出さなければならないのに。

 しばらく途方にくれていたクラヴィスの脳裏に、やがて一つの考えがひらめいた。

 ならば日常からではなく、意識からリュミエールを締め出してしまえばいい。心を暗黒に明け渡し、何者も入れないよう闇で満たすのだ。

 切れ長の双眸に現れていた苦悶の表情が、すうっと透明に凍り付いていく。それは苦しみの終わりではなく、心をより遠い所に追いやろうとしている色だった。

 警鐘によって闇に落ちた後はいつも、しばらく時をおけば現に戻る事ができた。それを、自分から停めてしまえばいい。二度と戻ってこれないよう自らを封じるのだ。そうすれば、罪や罰が今以上に増える事だけはないだろう。

 そのような状態でも最低限の職務を果たし、生きていけるのは、経験から分かっている。記憶から自動的に所作を再生し、意識の表層だけを用いて生き骸のように過ごすのだ。凍った心のまま、ただ惰性に身をゆだねて──そう、あの者と出会う前の、殆どの時間がそうであったように。




 意識が冷えていくにつれて、感情や感覚が薄らいでいくのが分かる。遠ざかりゆく現の光景に、ある記憶が映りこんでいるのを、クラヴィスは無感動に眺めていた。

 湖畔の草の上で、痛そうに腕を押さえながら見上げてくる、繊細な面差し。だがその像も次第に色を失い、儚い輪郭に変わろうとしている。

(あの時、呼びかける事ができたなら……)

細く途切れがちな線が端から砕け始め、周囲に溶け込むように消えていく。

(……何かが、変わっていたのだろうか)

それが見えなくなった時、クラヴィスの意識は完全に凍り付いていた。

 自らが心中で呟いた、最後の言葉の意味さえも、彼にはもう理解できなかった。


闇の章4−1へ続く


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