闇の章・4


1.



 その感覚は、前触れもなく訪れた。

 心を覆う壁を通して、闇のサクリアが反応している。意志とは関係なく瞼が閉じ、神経が集中し始めている。

 何かが、起ころうとしているのだろうか。宇宙全体さえ揺るがしかねないほどの、途方もなく巨きな何事かが。





 しかし感知できたのは、九つのサクリアに異常がないという事だけだった。いやむしろ、各々の力は、以前より強く流れているようにさえ思われる。

 ではいったい何が、この意識を引き戻したのだ。星雲規模の災害でも、起ころうとしているのだろうか。

(……違う)

闇の守護聖は瞼を開き、呟いた。

 たしかに幾度か、そのような予感を覚えた事はある。集中によって位置と内容をより明確にし、補佐官に報告すると、研究院と派遣軍が被害を抑えるべく動き出したのを覚えている。

 だが、それほどの予感であっても、閉ざした心の奥に響くほどの衝撃を与えた事はなかった。ここまで集中して、なお内容が明確にならないというのも、初めてだ。

(前例のない大事……か)

 クラヴィスは深い息をつき、夜の散策を中止して館に向かった。





 闇の守護聖は寝室に入ると、水晶球の前に腰を下ろしたが、すぐそこから視線を外してしまった。

 この透明な結晶が何を映し出すかは、主である自分にさえ予想ができない。求めていた答えが現れる事も少なくない一方、思いがけない真実を示してしまう事も大いにありえるのだ。

 たとえば宇宙の異変を突き止めようとして、自らの内面が映し出されてしまったとしたら……

 クラヴィスの全身に、震えが走る。

 蘇った心は今にも戒めを破り、あの──相手を具体的に思い出さないよう、彼は意志の限りをつくした──存在を求めてしまいそうになっている。もしそれが像を結んだなら、どれほどの想いと罰が心に押し寄せる事だろう。

 いつの間にか躯が、痛みに備える姿勢をとっている。急いで逃げなければ。もう一度心を封じ、意識を凍らせてしまわなければ。

(だが──)

闇の守護聖は、躊躇った。

 平常時ならいざしらず、この得体の知れぬ異変を前にして、果たして逃げる事が許されるだろうか。宇宙にいかなる被害が発生するか知れない時に、守護聖の一人が心を放棄していて、聖地が対処できるだろうか。保身のために、そこまで他を犠牲にしていいものだろうか。





 答えは明らかなのに、それを認める勇気が出ないまま、時だけが過ぎていく。

 やがて、厚いカーテンと窓の向こうで、小鳥がさえずりだした。かなり久しぶりに聞くように思われるのは、ずっと意識を飛ばしていたせいだろう。

 朝の訪れをぼんやり認識しながら、なおも迷い続けていると、扉の外から低い声が聞こえてきた。

「クラヴィス様、お目覚めでしょうか。リュミエール様がいらっしゃいました」

 たちまち、制裁の鞭が振り下ろされる。胸を引き裂く痛みにうずくまりながら、クラヴィスはその名のもたらす、驚くほど豊かな感覚に翻弄されていた。

「水の守護聖リュミエール様が、居間でお待ちです」

 繊細で清らかな音色、穏やかで誠実な言葉、仕草、表情、声。あの青年の存在が静かに流れ込み、温め、潤していく。心がそれを求め、進み出ていこうとしている。





 ──許されるはずもないというのに。





大槌に殴られたような衝撃が、息を詰まらせる。周囲の空気が棘となり毒となり、命ごと存在を奪おうとしているような敵意をもって襲い掛かってくる。

「クラヴィス様、お加減でもお悪いのですか。いつぞやの事もございますし──」

「……会わぬ」

この家令でもなければとても聞き取れないであろう声を、ようやく搾り出すと、闇の守護聖は天蓋の支柱に手を伸ばした。縋るように体を持ち上げ、崩れ落ちるように寝台に身を投げる。

 次の瞬間、寝室の扉が開かれた。

「失礼いたします。クラヴィス様……」

勢い込んで入ってきた家令が、寝台に入っている主を見て安堵の息を漏らすのが聞こえた。床にでも倒れていると思ったのだろうか。

「お寝みになるのですか……では、お引取りいただくようお伝えしておきます」

 扉の閉まる静かな音に、一瞬だけ緊張を緩めた闇の守護聖は、しかし、すぐに激しい痛みの渦に落ちていった。


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