闇の章・4−2


2.



 気の遠くなるほど長い昼と夜を経て、クラヴィスは重い躯を起こした。

 いくら悩んだところで、答が変わるわけではない。眼をそらし続けたところで、苦しみが減るわけでもない。

 意識を現に留め、宇宙の異変に対応する。

 守護聖である以上、他の選択などあり得ない。たとえそれが、逃げ道を失う事を意味しようとも。





 日の昇るのも待たず、闇の守護聖は王立研究院に馬車を走らせた。

 広いロビーに入り、通路を抜けて観測データ室に向かう。その度に、居合わせた職員たちがいっせいに驚きの視線を向けてきた。自分が早朝に訪れるのが、それほど意外なのだろうか。

「そこの者」

「はいっ……クラヴィス様」

データ室の職員に呼びかけると、上ずった声が返ってきた。

「ここ数日で、宇宙に常と異なる様相が観測されてはいないか」

「いえ……いえ、特には何もありません」

なぜか相手は視線をそらし、額に汗さえ滲ませている。異常がないというのなら、なぜ動揺するのだろう。

 その時、独特の装束をまとった異相の青年が近づいてきた。それが、先ごろ特例として研究院に迎え入れられた、水竜族のパスハという者である事を、クラヴィスはぼんやりと思い出していた。

「横から失礼いたします。この者は少し体調を崩しておりますので、よろしければ私が替わりたいと思いますが」

「……構わぬ」

闇の守護聖が答えると、先の職員は恐縮したように一礼し、下がっていった。

「先ほどのお問い合わせに関しては、既にお聞きになったとおり、異常なしというのが答です。が──」

パスハは、余人に聞こえないほどの声で付け加えた。

「それに関して、折り入ってお知らせしたい事があります。恐れ入りますが、別室までお越しいただけないでしょうか」

クラヴィスはしばし相手を見返し、それから頷いた。





 王立研究院の応接室は、明るく簡素な造りだった。

 パスハは闇の守護聖に椅子を勧め、自らも向かいの席に腰を下ろすと、前置きもなく話し出した。

「私と共に聖地に参りましたサラという者を、ご存知と思いますが」

「……知っている」

火竜族の女性サラは、能力を認められて飛空都市の占い師に任ぜられていた。クラヴィスは一度引き合わされただけだったが、その身から、職に相応しい力を感じたのを覚えている。

「実はそのサラが、昨夜、“何か”を感知したと言ってきたのです。まだ具体的にはわからないのですが、宇宙全体に関わる異変の可能性もあると」

「異変……」

クラヴィスは、低く繰り返した。

「はい。内容が分からない段階のため、まだ公にはしていませんが、先ほどいらっしゃったジュリアス様にだけは、お話しておきました」

 頭の芯に、鋭い痛みが走る。

「あれが……来たのか」

「少し前にこちらに来られ、やはり異常が観測されていないかお聞きになりました。それに続いて、クラヴィス様が同じ事を尋ねられたので、一部の職員が動揺してしまったようです。失礼な態度をお詫びいたします」

「……そう、か」

闇の守護聖は、呻くように答えた。

 確かに光の守護聖ならば、自分と同じか、あるいはそれ以上に早く、この異変を察知できたかもしれない。だが今、その名を聞きたくはなかった。ずっと続いている痛みに加え、眩しい圧迫感が、追い討ちのように心を痛めつけてくる。

 水竜族の青年は、少し声を抑えて続けた。

「ジュリアス様もクラヴィス様も、何かを感じられたからこそ、こうして確認しにいらっしゃったのだと思いますが、これにサラの件を考え合わせますと、異変の起こる可能性はかなり高いと見るべきでしょう。ディア様にご報告の上、今後はより入念にデータを分析し、何か分かりましたらすぐお知らせするようにいたします」

「……頼む」

クラヴィスは短く答えると、椅子の背に手をついて重い躯を持ち上げた。

「ご気分が優れないようですが、救護室にご案内いたしましょうか」

主任の言葉に答える力もなく、闇の守護聖はただ頭を振ると、足を引きずるようにして研究院を出た。





 長い時間を掛けて執務室にたどり着いたクラヴィスは、闇に身を浸してようやく息をついた。

 許されない感情を抱いた事への、呵責。その呵責から逃げる道を阻んだ、未知の異変。その異変のために、今後いっそう関わらざるを得なくなるであろう光の守護聖の、存在の圧迫感。

 全てが自分を取り囲み、苛んでくるように思えてくる。逃れられるものかと、恫喝されているように感じられる。

「どうしたら……いいのだ」

悲鳴にもならない呻き声が、室内の闇に溶けていく。

 心を凍らせず過ごせば、間違いなく罪は増えていくだろう。それにつれて罰もまた、いっそう激しく絶え間ないものになっていくだろう。

 このような有様で異変に対処しようなど、とんでもない思い上がりだったのではないか。自分を保つ事さえ危ういというのに、これから襲いくるであろう痛みを耐え忍ぶ力など、どこにあるというのだ。





『それでも』

一つの言葉が記憶の中から、清らかな雫のように、降ってきた。

 聖地に来てまだ間もない、青銀の髪の少年。人一倍繊細な神経を持ちながら、どれほどの苦しみを負う事になるか分かっていながら、全てを受け入れ留まろうと決意した姿。声となって耳に届いたのではなく、表情に現れていた言葉。

 そう、かつてこの闇の中で、逃げない事を選んだ者を、自分は知っている。

(リュミエール……)

抑えきれず呼びかけた心に、裡なる闇がたちまち牙を剥く。





 人の温もりはおろか、全ての幸福から切り離されなければならない者が、なぜ親しみをもって他人の名など呼べるというのか。その名が喜びをもたらせばもたらすほど、罪は重くなる。

 許されない──許されない──許されない──





 頭といわず胸といわず、既に全身に回った痛みに躯を折りながら、闇の守護聖は、蘇った言葉を心で抱きしめていた。


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