闇の章・3ー9

9.


 緑の守護聖の退任が近づいているというクラヴィスの予想は、日毎に裏付けられていった。

 星の間や研究院で彼と出くわす事が増えてきた上、ディアと話し込んでいる姿を三日とおかず目にするようになったのだ。 恐らく研究院のデータや補佐官の指示に基づいて、緑のサクリアをこまめに放出しているのだろう。 宇宙への影響を最小限に抑えるため、守護聖の交替前後にはこういう方法で調整を行うことが珍しくない。

 とはいえクラヴィスがそれらを関連付け、意味を察する事ができるのも、退任を意識した眼で見ているからに過ぎない。そもそも、私邸の庭というごく馴染み深い場所でもなければ、兆候にすら気づきはしなかっただろう。それほど緑のサクリアの変調は、まだ微かなものでしかなかった。

 だが補佐官は全てを知った上で助言しているのだろうし、もちろん緑の守護聖当人は、己の状態を自覚しているに違いない。




 執務机から顔を上げたクラヴィスは、幾度目か知れぬため息をついた。

(退任……か)

これまで幾人もの守護聖たちが、自分より後から聖地にやってきては先に去って行ってしまった。 追い抜かれるのにも取り残されるのにも慣れてはいるが、だからといって、まったく何の感慨も覚えないほど順応しているわけではない。

 長らく憧れ続けながらいつか想像さえ及ばなくなってしまった“守護聖ではない自分”というものに、思いを馳せてみる。この職務から解き放たれ、一人外界に出ていくというのは、どういう感覚なのだろう。その時、自分は何を思うのだろう……

 読みかけの書類を文鎮で押さえ、闇の守護聖はゆっくり立ち上がった。暗色の重い扉を開き、陽光溢れる廊下へ歩みだすと、通りかかった事務官が丁寧な礼をとるのが目に入る。宇宙中の者に尊重される立場と、あまりに大きな責任。平穏に保たれている長い時間と、ごく限られた行動範囲。好むと好まざるとに関わらず宛がわれているこの日常に、終焉はどのように訪れるのだろうか。

 考えながら廊下を過ぎ、ホールを通り抜け、正面階段を下りていく 。微かに生気が乱れているとはいえ、相変わらずの美しさを保っている花壇や木立が目の前に現れる。 クラヴィスはぼんやりとそれらを眺めながら、いまだ聖地に馴染みきれない自分を感じていた。




 宮殿沿いに歩いていくと、視界の隅に霞がかかったような感覚があった。

(これは……?)

足を止めてその方角を眺めると、どうやら花壇のある一部だけが、他と異なって見えているらしい。特別な造りになってもいなければ、もちろん枯れたり萎びたりもしていないのだが、なぜかここだけが一際生気を失っているように見えるのだ。

 どういう事だろうかと考え込んでいたクラヴィスの耳に、軽くも落ち着いた足音が響いてくる。それは間もなく、潜められるように途切れてしまったが、既に彼は見慣れた姿を思い浮かべていた。

「……リュミエールか」




 カティスの造った花壇ならば、サクリアの影響をより強く受けるのは当然だろう。水の守護聖から説明を受けたクラヴィスは、ひとりそう納得した。

 だが今度は、当のリュミエールが、怪訝そうな表情で花壇を見つめ始めた。まだ緑の守護聖の変化には気づいていないようだが、それでも何かを感じ取っているのだろうか。

(ほどなく悟るかもしれぬな……お前ならば)

闇の守護聖は心中で呟きながら、奇妙な感情が生じてくるのを覚えた。この繊細な青年がカティスの退任を知ったらどうなるかと、ふと考えてしまったのだ。彼が緑の守護聖を信頼し、また敬愛している様子は、言葉や態度の端々から伝わってきていた。それほどの存在を失う事は、リュミエールにとってかなりの痛手となるだろう。

 そう思うだけで、落ち着かない気持ちになってくる。水の守護聖が悲しむのも気がかりだが、その悲しみを目の当たりにするのが、どういうわけか、更に不快になりそうな予感がするのだ。

(なぜ……)

戸惑いながら、クラヴィスは水の守護聖を見つめていた。いつもの柔和な微笑も消え、思い悩むように花々を見下ろしている姿が、なぜか苛立たしい。この場を離れたいという衝動に駆られ、彼は別の方角に歩き出そうとした。

 その時、リュミエールが突然顔を上げると、こちらに話しかけてきた。

「あの、クラヴィス様……もし湖にいらっしゃるのでしたら、ご一緒しても宜しいでしょうか」

湖。はっきり考えていたわけではないが、自分もそこに向かおうとしていたような気がする。気持ちが不安定な時に湖に赴くのは、半ば習慣のようなものになっている。だが、苛立ちの原因がリュミエールにあるとしたら、ついて来られてよけい不愉快な思いをするのではないだろうか。

 振り向きながら考えていたクラヴィスは、ふたたび青年を視界に納めると、それが杞憂である事に気づいた。リュミエールが共に来ても、自分の気持ちは一向に損なわれない。理由は分らないが、とにかく彼がこの苛立ちの原因ではないようだ。

 安堵しながら頷いてやると、水の守護聖は表情を緩め、嬉しそうに微笑んだ。その様子に動揺が収まっていくのを覚えながら、闇の守護聖は静かに歩き始めた。



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