闇の章・3ー8


8.

 無意識のうちに感じ取っていたものが、ある瞬間に、はっきりした意味と形をもって認識される──どれほど経験を重ねても、それは慣れる事のできない感覚だった。存在しなかったものが眼の前に突然現れたような驚きと共に、なぜ気づかなかったのだろうという苦さが胸に満ちてくる。まるで、暗号か騙し絵が解けた時のように。

 しかもそれが長きにわたって同僚であり、個人的に関わった数少ない人物の一人との、永劫の別れであるならば。




 草木の葉を掠めていくゆるやかな風と、夜行性の生き物が立てる密やかな音の中を、闇の守護聖は歩いていた。この地に来てから一度も手を入れていない私邸の庭は、クラヴィスにとって単に夜の散策に適しているというだけではなく、数少ない安らぎの場所ともなっている。

 だが今、彼はそこに変化の兆しを感じ取っていた。生命の実り豊かなこの庭全体を、微かな沈滞感が覆っているのだ。

「緑の……サクリア」

ふと漏れた呟きが、風化した布の最後の一糸のように溶け崩れ、消えていく。それを虚空に見送りながら、クラヴィスは数日前から──数週間前からかもしれない──神経の奥底に宿っていた微かな疼きの正体を悟った。




 館に戻り寝室に入ると、タロットカードの置かれた卓に向かう。艶消しを施された暗色の表面に、浮かべるようにカードを並べ、そして返していくと、先刻の勘を裏付ける象徴が次々と姿を現し始める。

(退任……)

日に焼けた人懐こい笑顔を、クラヴィスは思い出していた。

 ぎこちない空気を和ませ、緊張した場面を上手に収めている姿ばかりが心に蘇ってくる。それだけ幾度も、このような役割を果たしてきたのだろう。自らの職務だけでなく、同僚たちの間柄にまで気を配れるという得がたい特質は、ディアさえ一目置き、また頼りにもしてきたようだった……




「……っ!」

突然襲い来た暗黒に、クラヴィスは息を詰まらせた。

 変えられない過去が、たちまち心を埋め尽くすように広がっていく。思わず卓に手を突くと、重ねられていたカードが床に零れ落ち、金の髪をした女帝の姿を露にした。

 まっすぐで曇りの無い眼差し、意志の強そうな明るい表情、何もかもが眩しく近づきがたい光を放っている。カティスやディアと笑いあう声に、ルヴァやジュリアスに話しかける言葉に、そしてこの自分に向けてくる表情にさえ、その素養ははっきりと現れていたのだ。

(なのに、近づこうとしてしまった……)

無邪気で恐れ知らずな少女の姿の奥に、誰よりも強い女王のサクリアを、確かに感じ取っていたというのに。

(ただ王位に着くのを見守っていれば……何も起きはしなかった……はずだ)

だが、それはできなかった。ルヴァの控えめな助言が無かったとしても、いずれ事は起きていたに違いない。まるで自らを追い立てるように、ひたすら気持ちを加速させずにはいられなかった。彼女を傷つけ、また自らの心を罪で縛る事になったあの行動に出るまで、どうしても止まる事ができなかった。間違いなく彼女が女王になると知っていながら。

(それでは、私は……予想していたのか、この結果を?)

初めて浮かんだ疑問に、クラヴィスの意識は一瞬だけ静寂を取り戻した。しかしそれも、間をおかず押し寄せてくる暗黒の波に呑まれ、切れ切れになって心の底に沈んでいくだけだった。

 望みを持たぬ者の眼差しで、闇の守護聖は膝をつくと、床に落ちたカードを拾い上げた。

「どれほど長い時が過ぎようと……この痛みは消えぬ」

そしてこの心も彼女に向けられたまま、その形のままで凍り続けるのだろう。いつ終わるとも知れぬ日々の果てまで。


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