闇の章・3ー7
7.
(…………な……)
弱々しく呟きながら、クラヴィスは自分が夢を見ているのに気づいていた。それが起きている時にはありえない、何かを求め訴える言葉なのを感じていたからだ。
それなのに、口にした内容が思い出せない。ただ、色も動きも鈍い世界の中で、訴える気持ちだけが、場違いなほど強く心を動かしているのだけが感じられる。
求めているというのに、まるで、何かを拒んでいるかのような激しい反応。これほどの思いを起こさせるものが、自分の中にもあったのだろうか。
薄明るい靄に包まれたような意識で、闇の守護聖はぼんやりと思いを巡らせていた。
過去から呼び覚まされた痛みが、今頃こんな形で訪れたのだろうか。手が届くかもしれないと思いかけた、あの少女の記憶は、未だこの心を幾重にも縛り付けているというのに。
無意識の中をいいことに、再びそれを追い求めているのだろうか。あるいは、もっと他の……
そこまで考えた時、クラヴィスの視界の隅を掠めるものがあった。色も形も認識できない内に、幻のように消え去ってしまったが、曲線を描く輝きと、さらに遠く色あせた流れのような残像がほのかに残っている。
しかし今、自分を動かしているのは、それらではないという感覚があった。そのように遠く曖昧なものではなく、もっと身近なものが薄らいで去っていくような……緩やかだが重く、失う事が耐え難い……
(…………くな……)
見慣れた薄闇の中で、クラヴィスは目覚めた。厚いカーテンが外光を遮ってくれているが、おそらくいつもの時間──昼に近い午前──になっているのだろう。快いとはいえない寝覚めに大きく息をつくと、彼はゆっくりと寝台を後にした。
とりあえずの身支度をすませて寝室を出ると、家令が近づいてきて一礼する。
「おはようございます、クラヴィス様。今朝方リュミエール様がいらっしゃって、ただ今お庭を散策されております」
室内では漆黒に見える切れ長の眼が、意味を量るように訝しげに顰められ、次いで見開かれた。
居間の大窓を覆うカーテンを、白く大きな手が乱暴に払いのける。ガラス越しに見えるのは鬱蒼とした木ばかりで、人の気配さえ感じられない。
「……何故、起こさなかった」
窓外に眼を向けたまま、クラヴィスは家令を詰問したが、答えは聞く前から分かっていた。水の守護聖がそう望んだからだ。この館で演奏を聞きながら寝入ってしまうと、いつもリュミエールは起こさないようにと場所を外し、日のある間ならば庭を散策する。今日もその習慣どおりに振舞ったに違いない。
家令が予想通りの答えと謝罪を返してくるのを聞きながら、闇の守護聖は大窓を開けた。朝の清涼な香りが薄く残る庭に踏み出すと、そのまままっすぐ森の中へと入っていく。
すると間もなく、木々の間に淡い色が覗いているのが見えてきた。幹でも枝でも葉でもない、緑がかった水色の柔らかな姿が、放心したかのように立ち尽くしている。
(リュミエール……)
闇の守護聖は、緊張が解けたように深い息をつくと、そちらに近づいていった。
だが、ようやく声の届くあたりまで着いた時、その姿が突然、寒気に襲われたかのように身震いするのが見えた。抑えるようにわが身を抱くただならない様子に、クラヴィスは思わず声をかけた。
「寒いのか」
振り返ったリュミエールの表情は、驚きこそすれ、辛そうには見えなかった。呼びかけてくる声にも、早足で歩み寄ってくる姿にも、特に調子の悪そうな印象は受けない。無言のうちにそこまで確認すると、ようやく闇の守護聖は、青年の語りかけてくる言葉に耳を傾け始めた。
連れだって館に戻りながら、クラヴィスはようやくいつもどおりの週末に戻れそうだと安堵していた。家令に温かい紅茶を入れさせ、朝昼兼用の──リュミエールにとっては昼食となるのだろうが──食事を摂り、あとは竪琴の調べに耳を傾けていればいい。そうすれば静かな、流れに任せてさえいれば済む、慣れ親しんだ時間が流れ始めるだろう。
だいたい今朝は、寝覚めからしておかしかった。はっきりとは思い出せないが、気分のよくない夢を見ていたような気がする。ようやくそこから抜け出せたかと思うと、なぜかリュミエールが早くから庭を歩き出し、その姿を見つけてみれば、なぜか冷気にでも当たったかのような格好をしている。最後の件は結局、大した事ではなかったようだが、とにかく目覚めてから落ち着けるまでの間が、あまりにも長くかかってしまった。
だが、その期待はあっけなく外れた。いつものように演奏を所望すると、青銀の髪の青年は、今にも卒倒しそうなほど蒼白な面でこう答えたのだ。
「申し訳……ありません……竪琴を」
「何?」
「……忘れて参りました」
クラヴィスは、虚空に視線を泳がせた。ただ普段どおりに過ごしたいだけなのに、まるで様々な要素が、あえてそうさせまいと働いているようだ。いっそ何もかも諦めてしまえたら楽なのかもしれないが、なかなかそこまで気持ちを切り替える事も出来ない。演奏がなくても静かに過ごす事はできるかもしれないが、リュミエールがここまで動揺していては、こちらも穏やかな気持ちにはなれないだろう。
「苦になるならば、取りに戻れ」
事態を元に戻すべく重い口を開いた途端、闇の守護聖はもう一つの方法に気づいた。
「……いや、私が水の館に出向こう」
リュミエールが忘れ物を取りに帰れば、再度の訪問まで自分が落ち着けないような気がする。ならばいっそ場所を変えてでも、この青年と共にいた方がいいのではないだろうか。
水の守護聖の面が輝くように明るくなるのを見ながら、クラヴィスは家令に外出に仕度をさせるべく呼び鈴を鳴らした。
リュミエールの馬車に同乗して水の館に向かっていると、目覚める前からの不快感が少しずつ洗い流されていくのが感じられた。偶然が重なって習慣が破られたとしても、この落ち着いた心地さえ取り戻す事ができれば、何とか一日を過ごしていける。
水の館の敷地に入った馬車が、大きな弧を描いて建物の正面に向かう。窓外からふと正面に視線を向けたクラヴィスは、そこに座る青年が沈んだ表情になっているのに気づくと同時に、夢で呟いた言葉が胸に蘇りかけたのを感じた。
(行くな……!)
その時、馬車が静かに停まった。
あの呟きは、何を意味していたのだろう。それをどうして、今になって思い出したのだろう。不審に思いながら馬車を降りると、美しい庭園に囲まれた瀟洒な館が眼に入る。
「私のせいでご足労いただいて、申し訳ありませんでした。せめて精一杯おもてなしさせていただきます」
優しく微笑むリュミエールの面に、もう先刻の陰りは残っていなかった。
水の館の清浄な空気を味わうように吸うと、クラヴィスは穏やかな気持ちで頷いた。夢で追い求めたものが何であれ、今はそのように苦しい気分ではない。それでいい。
いつもとは多少異なった点もあるとはいえ、ようやく慣れ親しんだ穏やかな週末が始まったのを感じて、今度こそクラヴィスは安堵の息をついた。