闇の章・3ー6


6.

 それから数週間たったある午後、闇の守護聖は私邸の庭の一角を、信じられない思いで見つめていた。

(これは……?)

十歩ほど先の木の根元に、浅黒い肌と銀の髪を持つ少年が横たわり、眠っているのだ。

 誰なのかは知っている。新任の鋼の守護聖ゼフェルだ。前任者が交替後すぐに聖地を出なければならない状態だったため、またしてもルヴァが教育係をつとめているという事も、オリヴィエの時と違い、かなり彼を手こずらせているという事も知っている。何しろこの自分さえ、少年の引き起こす小さな騒動を──ジュリアスに叱りつけられたり、ランディに態度を咎められて喧嘩になっていたり──幾度も目の当たりにしているほどなのだから。

 中でも最もよく見かけるのは、ルヴァから逃げ出している姿だった。あまり運動神経が良くなさそうな教育係を尻目に、矢のように走り去っていくゼフェルは、もはや聖地の日常風景の一部といってもいいかもしれない。

 一方、後に残された地の守護聖は、しばらく途方にくれた顔で立ち尽くし、それから人に見られているのに気づくと、弱々しい微笑と共に言うのだった。

「サクリアの移動が速かったせいで、あの子は告知から就任までの期間がとても短かったんですよ。だからまだ、割り切れないといいますか、その、自分の立場にどこか納得できないままでいるんでしょうねー……」

(そもそも、簡単に納得できるものではなかろう……)

ルヴァの言葉を聞くたび、クラヴィスは心の中で呟いた。ただの人間として育ってきた者が、突然宇宙を司る力の一部を担えと言われたところで、そうすぐには受け入れられないのが自然というものだ。もっともその割り切れなさがどのような態度となって現れるかは、かなり個人差があるようだが。




 それにしても──これは、一体何なのだろう。同僚とはいえ、直に言葉を交わした事もない相手の私邸の庭で、心配などとは無縁な様子で安らかに眠っているこの姿は。

  黙って見下ろしていると、小鳥が少年の足元に舞い降りるのが見えた。動く気配がないので、安心して羽を休めにきたのだろう。

(……そうか)

形は違うが、以前にも似たような事があった。鳥や動物たちのように安らぎを求めて来た者を、そのまま留まらせてやった事が。この少年と同じ年頃の、優しくも繊細すぎる心を持つ守護聖を、拒まず受け入れてやった事が。

 今や彼は思慮深く落ち着いた青年となり、繊細さを補って余りある強さを心に備え始めている。それでもまだ闇から離れようとしないのは、恐らく、深すぎる情のためだろう。闇に蝕まれている者を見れば放っておけず、つい守り癒したくなるであろう性を持つゆえに……

「う……ん」

くぐもった声が聞こえたかと思うと、小鳥が慌てたように飛び立っていった。どうやら、鋼の守護聖が寝返りを打ったらしい。

 物思いから覚めたクラヴィスは、なおも眠り続けている少年をそのままに、館に戻り始めた。

 あれは、あのままにしておけばいい。塀も柵もない庭だ、恐らくは誰かの私邸と気づかず入り込んでしまったのだろう。鹿が一匹増えたようなもので、こちらの生活を邪魔さえしなければ、特にどうするほどの事でもない──

 その後もクラヴィスは数回、ゼフェルが庭の奥で寝ているのを見かけたが、それに対して何の行動を起こそうとはしなかったし、気にも留めようとはしなかった。




 執務室を訪れたルヴァが、世間話のようにゼフェルの話を始めた時も、闇の守護聖はそれが自分とどう関っているのか、さっぱり見当がつかなかった。だがその中に、“昼寝”という言葉が出た途端、庭で見たものが思い出され、相手の意図を察する事ができた。

 騒がしくしなければ気にならないと告げ、礼を言って退出していくルヴァを見送ると、クラヴィスは再び執務に戻るべく、机上の書類に目を通し始めた。

 しかしその視線は、間もなく、書棚の方に向けられていった。

 そこでは水の守護聖が、幾冊もの分厚いファイルを整理している。いつものように執務室を訪れ、いつものように静かに的確な補佐をしてくれている、あまりにも見慣れた青年の姿。

 だが、今目の前にいるのは、見たことも無いリュミエールだった。姿勢も表情も普段と変わらないのに、黙々と作業しているその全身からは、いつもの穏やかな生気がまるで感じられないのだ。

 つい先刻、ルヴァがこの部屋を訪れるまでは、いつもと変わらない様子だったはずだ。あの訪問がよほど意に沿わなかったのだろうか。リュミエールが地の守護聖に対して悪感情を抱いているとは思われないから、用件が原因だったのだろうか。とすると、ゼフェルの昼寝の話が、ここまで彼を消沈させたのだろうか。

(……分からぬ)

いつか考え込んでいるのに気づくと、闇の守護聖は急いで頭を振った。

 他人の心を量るなど、自分に叶うはずもない。為しうるのはただ、物事を受けいれ、あるいは耐えていく事くらいなのだから。

(誰かを心配する資格など、私にはない……)

自らに言い聞かせるようにそう結論づけると、クラヴィスは書類に視線を戻していった。

 室内を満たす闇と沈黙を、長らく慣れ親しんできたそれらを、妙に重苦しく感じながら。





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