闇の章・4−15




15.

 気がつくと、闇の守護聖は林の中を歩いていた。意識がはっきりするにつれて、見覚えのある景色が視界に浮かび上がってくる。どうやって来たのかは思い出せないが、自分は聖地に、それも、目指していた岸辺の近くにいるようだ。周囲に濃くなってきた水の気が、遠のいていた意識を取り戻させてくれたのだろうか。

 間もなく岸辺に辿り着いたクラヴィスは、水際まで進んで足を止めた。立ち昇る気に包まれて、痛みが徐々に和らいでいく。消耗した神経が蘇り、すぐ側に開いていた深淵が遠ざかっていく。

 闇の守護聖は大きく息をつき、それから、茶会での出来事を思い出した。捨て台詞のような言葉を残して出てきてしまったが、少しでもリュミエールへの追及を逸らす事はできただろうか。

“優しさの素晴らしさを知り、憧れるほどに、自分がそこから遠く隔たっているのを感じるのです……”

繊細な面に現れていた、強い自責の表情が眼に浮かぶ。

 あれほどの優しさを当人が認めていないとは、思ってもみなかった。少し基準を下げさえすれば、もっと楽に生きられそうなものを、それもできずに悩み続けてきたのか。物柔らかな言動の奥に、何と頑なな心が潜んでいたのだろう。

 水の守護聖の新たな、不器用とも思われる一面を知って、クラヴィスは胸に温かな感情が湧いてくるのを覚えた。

(気づかぬか……悩む事自体が、お前の優しさの現われだと……)

言葉で教えてやれたらいいのだろうが、自分にはあまりにも難しい業だ。せめて、この心で相手の心を抱きしめ、労わってやれたなら。あの美しい躯ごと、抱き止める事ができたなら。そうして、二度と離れられぬよう、この腕で戒めてしまえたら──





 突然、周囲から騒々しい音と、小さく叫ぶ声が聞こえた。振り返ると背後の木々の中に、他でもない水の守護聖が立っている。

「……リュミエール?」

驚いて呼びかけたのとほぼ同時に、足下が小さく揺れ始めた。

 地震。不安定な星に出張した折に経験した事はあったが、聖地で発生するなど、女王交代時を含めて一度もなかったはずだ。

 信じられない思いで揺れに耐えながら、クラヴィスは先に聞こえたのが、幾羽もの鳥の飛び立つ音だったのを思い出した。人にはわからない前兆を感じ、空へと逃げていったのだろう。

 だが、むしろこの地震自体が、宇宙終焉の前兆なのではないか。予感だけでなく、人の態度だけでなく、ついに具体的な現象として、終焉が始まってしまったのではないだろうか。

 背を冷たい汗が伝っていく。それが地震によるものか、不吉な予感のためなのか、クラヴィスにはわからなかった。





 幸い、揺れはそれ以上大きくならないまま、程なく収まった。

 つかまっていた木を放した水の守護聖が、定まらない足取りでこちらに歩いてくる。その姿を見つめながら、闇の守護聖は、自分の意識がまだ混濁しているのかと疑いそうになった。飛空都市の聖殿にいたはずのリュミエールが、どうしてここにいるのだろう。まるで自分の願望が、そのまま形をとって現れたかのように。

「クラヴィス様……」

すぐ前までやってきた青年に、クラヴィスは問い返した。

「なぜ、ここにいる」

 心配して追ってきたという答えに、思わず溜息が漏れる。勝手に出て行った者にまで心を痛めるとは、いったいこの者は、どこまで優しいのだろう。そしてまた、非難から助けようとした当の相手を煩わせるとは、自分はどこまで愚かなのだろう。

「大丈夫でしたか、今の……」

水の守護聖は問いの途中で言葉を止め、続けるのを躊躇っていた。聖地に地震など起きるはずがないと知っているからこそ、何かの間違いであってほしいと思っているのだろう。

 しかし、自分たちは皆、いつかは事実に向きあわなければならない。現在のところは、女王と補佐官だけで危機に対処しているようだが、いずれ守護聖の力が必要とされる時が来るだろう。一般の民たちには伏せられるとしても、遠からず自分たちには、宇宙で何が起きているかが明かされるはずだ。

 だから、今は事実だけを口にしようと、クラヴィスは心に決めた。隠しもごまかしもせず、かといって余計な情報を付け加えもしないで、ただ眼の前の事実だけを。

「地震だな」

はっきり言葉にすると、改めて事の重大さが感じられる。

 何も知らないリュミエールは、更に強い衝撃を受けたらしい。いつになく度を失った様子で事態の異常さを訴えると、宮殿や王立研究院に報告するべきだと言い出してきかなかった。

 どう説得したものかと考えあぐね、面を伏せたクラヴィスは、突然、試験が新宇宙で行われる真の理由に思い当たった。

(聖地の異変を、女王候補たちに見せぬため……か!)

少女たちが、余計な不安を覚える事なく集中できるように。試験に支障をきたさないように。ただそれだけのために、飛空都市をまるごと整備し、会場を移したのだ。

 そこまで特別扱いなのは、やはりこの女王試験が単なる選考ではなく、宇宙の危機に対する手立ての一部だからだろう。パスハとサラの起用も、そう考えれば納得がいく。異例な登用ではあったが、それだけ切実に彼らの能力が必要とされているのだ。他でもない女王試験、即ち、宇宙中の生命の救済策のために。

 最初から全てが女王によって予感し、予測し、進められてきたのだろう。ならば、まだ終焉さえ知らされない自分たちにできるのは、ただ平常心を保って待機する事くらいしかなさそうだ。

 闇の守護聖は慎重に言葉を選び、口にできる範囲で状況を説明した。返事が聞こえてこないので眼を上げると、青銀の髪の青年が、混乱した表情でこちらを見つめている。純粋で痛々しい視線に耐えられず、かといって突き放すにも忍びなく、クラヴィスは重い動作で躯の向きを変えると、林に向かって歩き出した。

(ここにいては……危険だ)

自分を追って聖地に来たというのなら、一刻も早く飛空都市に連れ帰った方がいい。リュミエールがこれ以上の異変に気づかないうちに。自分が再び衝動にかられないうちに。

 青年が後をついてくるのを感じながら、闇の守護聖は、いつも馬車を待たせている場所を思い出していた。





 習慣どおりの場所で待っていた馬車に乗り、二人は次元回廊から新宇宙に戻った。

 扉を開けて通路に出ると、正面から光と地の守護聖がやってくるところだった。ジュリアスの意識と視線に耐えるのは難しかったが、やむなくクラヴィスはその場に足を止め、話を聞いた。どうやら、既に彼らの元にも地震の知らせが届いているようだ。

 こちらの様子を案じるルヴァに、リュミエールが答えようとするのを、闇の守護聖は強引に引き取った。一刻も早く話を終わらせたかったのだ。

「被害の出るようなものではなかったようだ。正確な情報は、研究院の報告を待つしかないだろうが」

地の守護聖が、大きく息をつく。

「大した事がなくて良かったですよ。この後も、これくらいですめばいいんですが」

「ルヴァ……?」

光の守護聖が聞き返したのと、クラヴィスが身を固くしたのが同時だった。今漏らした言葉からすると、聖地に更なる災厄が起きる事を確実視しているのだろうか。だが地の守護聖は、それ以上この件に触れる事なく、しどろもどろな言い訳を残すと、一人で次元回廊室に入っていってしまった。

 再び閉められた扉から、ジュリアスがこちらに視線を戻す。それは、ほんの一瞬だったのかもしれないが、闇の守護聖の裡に呵責を蘇らせるには充分だった。





 薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いている。

 激しい眼差しが、時空を越えて心を責めつけてくる。





 ジュリアス。それに、アンジェリーク。





 闇の守護聖は固く両眼を閉ざし、通路の壁にもたれてようやく躯を支えていた。

 頭から胸から、押しつぶされそうな罪悪感が全身に広がって行く。逃げる事はおろか指一本動かす事さえ叶わず、存在さえ危うくなりそうな苦しみに襲われて、しかもそれが、何の償いにもならないという虚しさ。宇宙の終焉に対し、いつ力を必要とされるかわからない身でありながら、何と無力なのだろう。このような有様で、本当に役に立つのだろうか。

(終焉……)

クラヴィスの脳裏を、一つの考えが過ぎった。数多の命を救う助けができるのなら、それに力を尽くせるのなら、僅かでもあの二人に対しての償いになるかもしれない。女王も光の守護聖も、何よりそれを望んでいるはずだから。

 瞼を上げた闇の守護聖は、すでにジュリアスが立ち去っているのに気づくと、弱った躯に鞭打つように壁から身を離した。

(ならば……動かなければ……)

より多くの助けになるため、このような自分にでも、できる事があるはずだ。終焉に向かう宇宙にどのような育成をすればよいか、占いが判断の一助になるだろう。女王試験の進行にも眼を配り、状況によっては候補たちに力添えをする事も、あるいは必要になるかもしれない。

 力の入らない脚を動かそうとすると、温かい手が背を支えるのが感じられた。あえて振り向きはしなかったが、そこに誰の姿があるかは疑いようもない。優しく強く、悩み多く、頑ななリュミエール。

(労わってやりたいなど……随分と、思い上がった事を考えていたものだ……)

伝わってくる温もりに、それを自分が得られる事に、限りない感謝を覚えながら、クラヴィスはゆっくりと通路を進んでいった。




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