闇の章・4−16




16.

 聖地で地震があった事は、間もなく飛空都市の住民にも伝わった。

 だが直後、これが女王交代時には珍しくない現象であり、特に心配するにはあたらないという話がどこからともなく広まったため、人々が不安に駆られる事はなかった。恐らく女王が秘密裏に噂を流させたのだろうが、飛空都市に前回の交代を経験した者が殆どいなかったのが幸いして、疑いを挟まれる事もなかったようだ。



 その間にも、試験は滞りなく進んでいた。幼少より女王になるべく育てられたというロザリアが、当初は相手を引き離していたものの、文明がある程度成熟し、発展速度が鈍ってくると、今度はようやく要領を覚えたらしいアンジェリークが追い上げてきて、現在は殆ど差がなくなっている。



(試験が救済の一助であるならば……これは、望ましい状況なのだろうか)

私邸の安楽椅子に身を沈め、終焉について占い続けていたクラヴィスは、ふと視線を上げ、女王試験に思いを馳せた。

 閉められたカーテンの向こう、窓の外では、週末の穏やかな時が流れているのだろう。今日は緑の館で茶会が開かれ、女王候補たちやリュミエールをはじめ、そのような催しを好む者たちが集まっているという。

 そう、連れ立って茶会を楽しむほどに、少女たちの間には友情が育まれているのだ。女王の座を競い合っていながら、しかも今、まさに力が拮抗している状態でありながら、険悪になるどころか互いを認め合い、良い刺激として励みあっている。

 候補同士にそのような関係が生じるのかと、当初は懐疑的だったクラヴィスも、二人の言動を目の当たりにするにつれて、次第に認めざるを得なくなってきた。

(だとしたら……)

それは新鮮な驚きであると同時に、苦く重い認識でもあった。



『……これからもよき好敵手として、互いを磨いていこう』

過労で倒れた少年が、微笑みながら口にしたのは、この事だったのだろうか。傷つけあいも争いもせず、ただ友として成長していく事が、自分たちにも可能だったのだろうか。もしそうであったなら、それを知っていたなら、何かが変わっていただろうか。今と違う自分、違う今があり得たろうか。



 悔恨の気持ちを抱きかけて、その資格などないと思い直す。実際に起きなかった事を考えても、儚い逃避にしかならない。確かなのは、自分がしてしまった事だけだ。償うには大きすぎ、謝るには遅すぎる、どうしようもない罪だけだ。



 心の裏側を、激しい眼差しが抉ってくる。金の髪の少年が、暖炉から取り出した燃えさしを手に、まっすぐ見つめてくる。

『お前は……お前という者は──』



 他の道があったかもしれないのに、自分は間違った方を選んでしまったのだろうか。避けられたかもしれないのに、誤解から、取り返しのつかない傷を負わせてしまったのだろうか。

 自責に新たな煩悶が重なり、一層の重量をもって心を潰してくる。意識の裏側を抉るように、永く深い痛みが刻まれる。どのような可能性を考えようと、逃れられない罪が厳然として自分の上にある。ジュリアスに、アンジェリークに負わせた傷が、幾倍もの烙印となってこの身に焼きついている。



 苦しみに息を詰まらせた瞬間、何かが膝を打つ感触があった。驚いて眼を開くと、鈍い音とともに、水晶球が暗色の床に落ちるのが見えた。無意識に捩った躯が卓に当たり、傾けてしまったのだろうか。

 時間を掛けて息を整えたクラヴィスは、卓を脇によけると、球を拾うべく屈みこんだ。だがなぜか、手が前に出ようとしない。仄かに白く光る球が、突然、得体の知れぬ恐ろしいもののように感じられたのだ。

(馬鹿な……)

前にも同じ感覚を抱いた事があったような気がするが、一体これは、何なのだろう。遠い昔から手元に置き用いてきた、最も馴染み深い持ち物だというのに。他の誰のものでもなく、自分しか扱う者もない道具だというのに。



 しばらく見つめているうちに白光は消え、それとともに、故知れぬ警戒心も収まっていった。注意深く水晶球を拾い、眺めてみても、特に変わったところは見当たらない。

 原因を突き止めるのを諦めて、闇の守護聖は水晶球を台座に戻した。



 リュミエールがやってきたのは、日の暮れる直前だった。前もって知らせてくれた事ではあったが、遅くなったのを律儀に詫びると、竪琴を奏で始める。

 いつもながら心安らぐ美しい調べは、しかし次第に、どこか悲しげな響きを帯びてきていた。当人は気づいていないようだが、心から素直に奏でられる音には、感情がまっすぐ表れてしまうものだ。

 どうしたのか尋ねると、水の守護聖は今日の茶会であった事を語り出した。

 聖地の緑の館にサクランボが生らなかった、マルセルが館に機械が増えたかと勘違いしたなど、ごくたわいない話に、どういうわけか地の守護聖が深刻な表情を見せたというのである。そうして、こう呟いたという。

『もう、その段階に……注意しなければ……』



 段階。

 ルヴァがそこまで気に掛けるからには、これは、宇宙の終焉への段階だと考えて間違いないだろう。聖地の地震だけでなく、緑の守護聖の話から、彼は何かを掴んだに違いない。終焉に向かって、自分たちの宇宙は今、どれほどの段階に来ているのだろうか。果実のでき方や思い違いのようなものにまで、それは表れているのだろうか。

 地の守護聖の事だ、既に夥しい文献にあたり、宇宙の状態を量る方法をつかんでいるに違いない。ただ、それを公言する時期にはまだ至っていないと判断しているのだろう。ならば自分も、自分にできる方法で現状を、そして打つ手を探るしか……



「クラヴィス様は、ルヴァ様のお言葉を、どういう意味だとお考えですか」

控えめな声が耳に届き、闇の守護聖は物思いから覚めた。

 水の守護聖の繊細な面いっぱいに、不安そうな表情が広がっている。だがその瞳には、どのような事も受け止めようという、静かだが強い意志もまた見て取れた。

 クラヴィスは一瞬、全てを教えてやりたい衝動に駆られた。しかしまだ、終焉について口にするわけにいかないのだ。仮にそれができるとしても、ルヴァがどのような段階を指していたのかわからない以上、半端な答えにしかならないだろう。

「わからぬ。今はな」

闇の守護聖はやむなく言葉を濁したが、続けて、こう言わずにはいられなかった。

「だがいずれ、知る事になるだろう。お前も私も……我々の誰もが、否応なく」

 恐らく、これは始まりに過ぎないのだろう。終焉が近づくにつれ、宇宙は、そして自分たちは、更に様々な段階を経ていき、それらに起因した現象を目の当たりにしていく事になる。

 そして遠からぬ未来、宇宙の宿命を知らされた時──リュミエールは、いったいどれほどの衝撃と悲しみを覚えるだろうか。



 それらが少しでも小さくあるようにと、一瞬だけ罪も痛みも忘れて、闇の守護聖は切望した。




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