闇の章・4−17




17.

 それから十日ほどたったある午後、執務が一段落したのを機に、闇の守護聖はカードを繰り始めていた。

 神経を集中し、一枚ずつ反しては意味を考える。だがそこからは、相変らず漠然とした破滅の予感しか読み取れなかった。

『まだ、見えぬか……』

終末やその前兆に対応しようにも、具体的に何が起こるのかがわからなければ、動きようがない。自分が力不足なのか、それとも今の時点では、そこまではっきりと運命が確定していないのか。

 大きく息をつくと、眼の奥から頭にかけて、重い痛みが広がっているのが感じられた。夜は時間がある限り、昼も執務の合間を縫っては占ってきたが、さすがに疲れがたまってきたようだ。このような調子で続けても、答えは得られないだろう。

 肘掛に手をついて立ち上がったクラヴィスは、ふと卓上の水晶球に眼を向けた。室内の闇に溶け込むように、ひっそりと佇んでいる透明な球から、過日の恐ろしさは微塵も感じられない。

 闇の守護聖は小さく頭を振ると、重い足取りで扉に向かった。日中の飛空都市において、自室や私邸以外に心休まる場所があるとは思われなかったが、ここにいれば、ついまた占いを再開してしまいそうだったからだ。



 静けさを求めて、クラヴィスは森に向かった。聖地のそれより一回り小さいが、人気を避けるには充分な広さがある。鳥の声と葉ずれの音しか聞こえない空間に身を委ねていれば、少しは疲れを癒す事もできるだろう。

 木々に挟まれた小道を進んでいくと、前方に見覚えのある姿が現れた。屈強そうな体躯に赤い髪、炎の守護聖オスカーがこちらにやってくるところだった。クラヴィスは少し躊躇ってから、再び歩き出した。わざわざ道を変える必要もないだろう。型どおりの挨拶をしてすれ違えば、再び一人になれるはずだ。

 間もなく先方もこちらに気づいたらしく、険しかった表情を解いて目礼した。

「これはクラヴィス様、滝にお出かけですか」

「ああ」

闇の守護聖は、短く答えた。言われるまで、この道が滝に通じている事も失念していたが、否定するのも億劫だった。

「助かった」

苦笑まじりに漏らしたオスカーは、相手の視線に気づいて罰の悪そうな顔になった。どうやら、無意識の呟きだったらしい。

「いえ、大した事じゃありません」

炎の守護聖は急いで言い足すと、隠すほどでもないと思い直したらしく、軽い口調で説明した。

「滝に来たついでにと、柄にもなく、例の“お祈り”というのをやりましてね。誰も来ないと見て、すぐ戻ってきたからよかったものの、あのまま待ち続けていたら、クラヴィス様に出くわすところだったと思うと……危なかったですよ。もう少しで、悩んでしまうところでした」

「“お祈り”……?」

聞きなれない言葉に、闇の守護聖は思わず問い返していた。

「ほら、聖地の森の滝の──滝のふもとで会いたい人を思って祈ると、その相手がやってくるという、あの伝説ですよ。同じ水が流れているというので、この飛空都市の滝にも同じ話が広まっているんです」

「初耳だな……聖地の伝説も」

「えっ、ご存じなかったんですか」

炎の守護聖は意外そうに聞き返したが、それ以上話を続ける気にもなれなかったのだろう、取ってつけたような挨拶をすると、クラヴィスの脇を通って去っていった。

 青年の姿が視界から消えると、闇の守護聖は再び、森の奥へと歩き出した。滝の側なら静寂とはいかないだろうが、むしろ心は落ち着くかもしれない。音量が大きいだけに、かえって余計な考えを遠ざけてくれそうだ。

 緩いカーブを幾つか経る間に、少しずつ水音が近づいてきた。心地よく空気を震わせ、潤し、清める流れ。きっと古来、数多の人たちの苦悩を受け止め癒してきたのだろう。それがいつか、誰かの解釈を加えられ、“お祈り”という伝説になったのかもしれない。

 不意に視界が開け、眼の前に滝が現れた。決して大きくはないが、淀みなく流れ落ちるその流れには、人の穢れも流し去ってくれるような力強さと清らかさがあった。

(会いたい者を思って……か)

戯れにでも祈ってみようかと思っている自分に気づき、クラヴィスは急いで滝から眼を逸らした。誰に会いたいかはわかっている。毎日のように部屋を訪ね来る者、顔を合わせ会話を交わす相手。

 罪に沈む身にとっては、それだけでも許され難い幸福のはずなのに、まだ飽き足らないというのか。もっと近く、もっと頻繁に共にありたいと願っているのか。

 自責の痛みがまた心を覆い、押しつぶすように痛めつけてくる。闇の守護聖は、逃げるように滝から立ち去るしかなかった。



 先刻よりも消耗を覚えながら聖殿に戻ると、ホールに地の守護聖が立っているのが見えた。ルヴァは誰かを探すように周囲を見回していたが、同僚がいるのに気づくと、歩み寄りながら声をかけてきた。

「あークラヴィス、どこかでゼフェルを見ませんでしたか」

「……いや」

彼の教え子が、よく執務室を抜け出しては森や公園で気ままに過ごしているのは知っているが、今日はまだ眼にしていない。

「そうですか。いえ、あの子もだいぶ落ち着いてきたと思っていたんですがね、最近はまた何やら苛立っているみたいで、すぐに飛び出して行ってしまうんですよー。まあ、いずれ自分から戻ってきて、その日の仕事はきちんと終わらせるので、実害がないといえばないんですが」

「ならば……探し回る必要もあるまい」

「うーん、そう言われればそうなんですけどねー、何といってもあの子にはまだ、多分に不安定なところがありますから」

地の守護聖は困った表情で首をかしげ、それから、思い出したように聞いてきた。

「そういえば、あの子はあなたの庭で休むのが好きでしたね。やっぱりこの飛空都市でも、よく庭に来ているんですか」

疲れた頭で記憶を手繰ってから、闇の守護聖は答えた。

「試験の始まった頃は来ていたようだったが……言われてみれば、ここしばらくは見ていないな」

「えっ……」

突然ルヴァは、何かに思い当たったように蒼ざめた。

「確かですか、それは」

「少なくとも、二週間は見た覚えがない。単に、入れ違いになっているだけかもしれないが……それがどうしたのだ、ルヴァ」

地の守護聖は答えず、その穏やかな面を伏せて、何事か考え込んでしまう。

 どうしたのかと同僚を見つめていると、クラヴィスの脳裏にある言葉が蘇った。

“もう、その段階に……注意しなければ……”

マルセルに次いで、ゼフェルの行動にも何かが現れているのだろうか。終末に向かう行程の中の、一つの段階として。



 ややあって、地の守護聖は一応の答えを見出したらしく、ゆっくりと視線を上げた。それから、眼の前の相手が答えを待っているのに気づき、慎重に言葉を組み立てて口にする。

「そうですね、とりあえず言えるのは……人が長年の習慣を変えるのは、通常の状態ではあまりない事だ、というくらいでしょうか」

予想はしていたが、やはり拍子抜けするような一般論しか出てはこなかった。自分と同じく、ルヴァも終焉に関しては、明言を避けているのだ。いったい、いつまでこのような状態が続くのだろう。暗黙の了解に頼りながら、重要な事は口を濁すしかできない、歯がゆい状態が。

 相手に対して他意はなかったが、ただ自分たちの境遇に倦んで、クラヴィスはつい皮肉を漏らしてしまった。

「……つまりは、お前が読書をやめるようなものか」

「なぜ、それを──!」

地の守護聖は一瞬声を上げかけ、それからほっと息をついた。何が気にかかったかはわからないが、相手が深い意味もなく口にしたに過ぎないと気づいたのだろう。

「ええ……そういう事ですね」

軽く会釈をして、ルヴァは再び廊下を歩いていった。

 その後姿には、いつにない窶れと、そして、何かに立ち向かうような厳しさが滲み出ていた。




闇の章4−18へ


ナイトライト・サロンへ


闇の章4−16へ