闇の章・4−18




18.

 それから数日後、守護聖たちの下に、女王補佐官の名による文書が届けられた。サクリア放出指示や特別な用事がない限り、当面は聖地に戻らないようにという内容である。

 女王候補たちの成績が拮抗している今は、育成量などに些細な間違いでもあれば、結果に影響を及ぼしかねない。ゆえに不要な移動は避け、二大陸の育成に集中してほしい──あえて説明を考えれば、こういったところだろうか。

(だが……)

文書を手にしたまま、闇の守護聖は考え込んでいた。

 いかに試験が重要だとしても、わざわざこのような通達を出してまで、移動を制限する必要があるのだろうか。まるで、自分たちを聖地から遠ざけようとしているかのように。

 まさか、聖地が立ち入りを危ぶまれる状態になっているとでもいうのだろうか。確かにあの後、地震が続いていないとは限らないが、そこまで酷い災害が起きていたとしたら、むしろ守護聖全員が召集を受け、被害を抑えるためのサクリアを放出するように言われているはずだ。

 それとも、何かを隠そうとしているのだろうか。聖地に行けば気づかれかねない何事かを。だが、それにしては移動制限が緩すぎるように思われる。通常の放出頻度から考えれば、試験が終わるまでに全員が何度も聖地に行く事になる。戻る回数を多少減らしたところで、気づかれるものは気づかれてしまうだろう。

(……分からぬ)

クラヴィスは大きく息をつくと、文書を執務机に置こうとして、手を止めた。通達の後ろに、書類がもう一枚あるのに気づいたのだ。

 同じく補佐官のサインの入ったそれに眼を通すと、思わず皮肉な笑みが浮かぶ。いずれ機会を見て聖地に赴き、通達の真意を探ろうと思っていたが、このように早く機会が巡ってくるとは。

 漠とした期待と不安を覚えながら、闇の守護聖はサクリア放出指示書に署名した。





 数週間ぶりの聖地に、特段変わった様子は見られなかった。クラヴィスは指示通りの放出を終えると、宮殿の自室に向かった。定期的に書面で報告は受けていたが、執務に支障が出ていないか、念のため確認しておきたかったのだ。

「万事、滞りなく進んでおります!」

部屋付きの侍従が、いつになく張り切って答えた。留守を預かる気負いのためかもしれないが、いささか耳に障る声だった。

 無言で頷いて執務室を出ると、廊下を侍従たちが忙しそうに行きかっていた。守護聖たちがいないため、仕事が多少は増えているはずだが、それだけで、ここまで騒々しくなってしまうものだろうか。私語が飛び交っているわけではないが、慌しく精力的な動きが眼に入るだけで、神経が疲れてきそうだ。

 逃げるようにその場を抜けると、闇の守護聖は私邸に馬車を走らせた。





 慣れ親しんだ静寂と仄暗さに包まれて、クラヴィスはようやく安堵の息を漏らした。居間に身を落ち着けると、飲み物を運んできた家令に、留守中変わった事がなかったか尋ねる。

「はい、小さな地震は数回ありましたが、被害というほどの事はありませんでした……」

どうしたのだろうか、長年務めてきたこの者までもが、今日は声を張り上げているようだ。抑えるよう手を上げて合図すると、家令は一瞬意外そうな様子を見せたが、すぐに一礼し、声を低めて続けた。

「ただ、そのためでしょうか、王立研究院の方が、聖地のあちこちで計測をなさっているのを見かけるようになりました。他には特に……」

説明の言葉は、玄関の呼鈴に遮られた。週末にリュミエールが訪ねてくる時以外、ほとんど発せられる事もない音だ。今日は、水のサクリアの放出指示も出ていたのだろうか。

 いそいそと来客を出迎えにいく家令を眺めながら、クラヴィスは心が温まってくるのを感じていた。





 だが、告げられたのは意外な人物の来訪だった。

「鋼の守護聖ゼフェル様がお見えです。工具をいくつか借りたいだけなので、クラヴィス様を煩わせる必要はないと仰っていますが、いかがいたしましょうか」

軽い失望を覚えた闇の守護聖は、お前に任せると答えかけて、思いとどまった。地の守護聖と交わした会話、そしてリュミエールから聞いた茶会の話からすると、どうやらゼフェルには、留意すべき何かがあるようだ。会ったからといってそれがつかめる訳でもないだろうが、この機会を逃すのは惜しいような気がする。

 しばらく躊躇ってから、クラヴィスは長い息と共に答えた。

「……通せ」





 灯りの乏しい居間に入ってきた少年は、落ち着かない表情を隠そうともしていなかった。

「よお……悪かったな。せっかく家に帰ったとこだってのに」

ゼフェルは暗色の椅子に腰を下ろし、出された紅茶に恐る恐る口をつけると、彼としては丁寧な口調で話し出した。

「放出に来たついでに、久しぶりにエアバイクをかっとばしてたら、この近くで調子がおかしくなっちまったんだ。で、とにかく着地して、応急処置しようとしたんだけど、手持ちの工具じゃ足らないってわかってさ、それで……」

 ちょうど話し終わった時、家令がサイドテーブルに工具箱を置いた。

「こちらに、一通り入っております。足らない物がありましたら、どうぞお申し付けください」

「おっ、助かるぜ」

鋼の守護聖は蓋を開け、ざっと中身を確かめた。

「たぶん、これで大丈夫だ。恩に着るぜ」

機敏な動作で立ち上がった少年に、一言もかけられないまま、クラヴィスはただ頷くしかできなかった。人との会話で何かを探るなど、到底自分にできるはずのない事だった。

 工具箱を抱えて出て行こうとしたゼフェルは、しかし数歩進んだところで立ち止まり、難しい顔で振り返った。

「なあ、ちょっと聞くが……ここの庭って、前からこんなだったか?」

「こんな……?」

クラヴィスは質問の意味がわからず、ただ繰り返した。

「気を悪くしないでくれよ。何ていうか、放ったらかしになってるように見えるからさ。飛空都市の方はともかく、こっちはもうちょっとこう、手入れとかしてあった気がするんだ」

なぜそのような勘違いをしたのかと、不思議に思いながら、闇の守護聖は答えた。

「手入れなど、初めから一度もした事はない」

「一度も……って」

クラヴィスは、少年の赤い瞳が奇妙な形に歪むのに気づいた。

「だってさ、自分の庭だぜ。気持ち悪くないか?」

いきなり強い口調で問いかけてきたゼフェルを、闇の守護聖はただ見返した。何かが違っている。別人のように変わったわけではないが、どこか異なる印象を受ける。

「手を加えて、好きなように作り変えてはじめて、自分のものって感じになるんじゃねーのか。持ってるだけで何もしないんじゃ、持ち主のない空き地と同じだろ。自分がいてもいなくても同じなんて、おめーはそれで我慢できるのか?」

完全に理解できたわけではないが、彼らしい考え方ではあるようだ。本心から、真剣に訴えているのもわかる。しかしなぜこの場で、それも、親しい年少者同士ならともかく、この自分に対して言い出すのだろう。

 半ば不審な、半ば気圧された思いで聞いていると、ゼフェルは話し出した時と同じように、突然言葉を止めた。我に返ったように館主を見つめた眼差しは、普段のこの少年のものに戻っていた。

「悪かったな。何を熱くなっちまったんだか……じゃ、後で返しにくるぜ」

鋼の守護聖は決まり悪げに挨拶し、今度こそ部屋から出て行った。

 再び静寂の戻ってきた室内で、クラヴィスはしばらく今の来訪の意味を考えたが、答えは出なかった。ただ、捉えどころのない不安と違和感だけが、黒雲のように心に広がっていた。




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