闇の章・4−19




19.

 その日、執務室に届いた放出指示書を見て、クラヴィスは溜息をついた。すでに今日は、アンジェリークとロザリア双方からサクリアの依頼を受けていたのだ。しかも間の悪いことに、聖地を含め三件ともが、大量のサクリアを求めてきている。無理とまではいかないが、かなりの消耗を覚悟しなければならないだろう。



 夕刻、二大陸への放出を終えた闇の守護聖は、重い足取りで次元回廊に向かった。

 背後で扉が閉められると、いつもの奇妙な感覚が襲ってくる。移動しているというよりは、自分や周囲の時空が変質していくような、無数に分解されながら際限なく膨張しているような感覚。あまり気分のいいものではないが、それでも最近は慣れてきたのか、特に意識する事もなくやり過ごせるようになっていた。

 ようやく辿り着いた扉を開くと、クラヴィスは聖地の空気を大きく吸った。今のところ、特に変わった様子はないようだ。以前と同じように、穏やかにして活気に満ちた気が感じられる。

(だが……)

闇の守護聖は、出てきたばかりの扉を振り返った。

(これも……いつまで続く事か)

 当たり前のように往来しているが、この次元回廊は元々、女王のサクリアによって造られ、維持されているものだ。管理こそ王立研究院が担っているとはいえ、本来なら無生物さえ通すはずのない宇宙間を制御するには、想像を超えた力が必要とされるのだろう。

 交代が迫りサクリアが衰え始めた今、女王はこのような大業を為しながら、宇宙の終末が訪れるのを遅らせ、同時に生命の救済を計っている事になる。歴代にも稀なほど強固な意志と決断力、そしてサクリアを備えていると言われる彼女をもってしても、負担が重くないはずはない。もし女王の力が行き渡らないような事態になってしまったら、回廊はもちろん宇宙全体に、どのような影響が出るだろうか。

 改めて歩き始めながら、クラヴィスは固く拳を握っていた。このままではいられないが、できる事は限られている。闇の守護聖として、今の段階で考えるなら──

 暗色の眼が、微かに見開かれた。

 そうだ、もし終末の接近によって、宇宙のどこかに混乱が起きたなら、それを鎮める程度の事は可能だろう。研究院や補佐官が感知した分については、いつもどおりに指示書が回されるだろうが、それ以外の星域に兆しが感じられたなら、指示を待たずに放出するのも一つの手段ではないか。

 非力な科人であっても、少なくとも自分には、まだ動かせる躯と頭がある。聖地に戻った今こそが、宇宙の様子をつぶさに調べる良い機会となるはずだ。



 疲れを堪えながら、闇の守護聖は放出を終え、その足で王立研究院に向かった。

 通いなれたホールに入ると、そこは騒々しさに満ちていた。人の行き来も慌しければ、足音や声、普段なら気づかない機器の音までもが、耳障りなまでに大きく響いている。

「これはクラヴィス様、どのようなご用件でしょうか」

こちらに気づいた研究員が、妙に高い声をかけてくる。

 案内を断るように頭を振ると、クラヴィスはそのままデータ室に向かいかけたが、ふと気になって問いかけた。

「今日は何があったのだ。機械もうるさいようだが、調整はしてあるのか」

研究員は狐につままれたような表情で、それでも計器を確認してから、丁寧に答えた。

「いえ、特に何も起きておりません。今見ました限りでは、機械も正常に動いているようですが、どれか異音のするものがございましたか」

(何もない……だと?)

意外な答えに驚きながら、改めて見回せば、確かに特に人が多いわけでもなく、行き来も通常どおり整然としている。機械音も、どれがおかしいというわけではなく、ただ全体に音が大きく聞こえてくるようだった。自分の錯覚だったのだろうか。疲れのために、神経が過敏になっているのだろうか。

「……ならばよい」

言い捨てるように答えると、釈然としない思いを抱きながら、闇の守護聖はホールを離れた。



 データ管理室に着いたクラヴィスは、部屋付きの研究員に、前回の放出結果のレポートを請求した。通常の結果報告は飛空都市で受け取っていたが、より詳細で具体的な数値を見たいと申し出たのだ。もし宇宙に変化が起きていれば、サクリアの作用も以前と同じではなくなるだろう。自らの放出の結果を調べれば、それが通常とどのように異なっているか、最もよくわかるはずだ。

 だが、研究員は申し訳なさそうに言った。

「恐れ入りますが、ディア様かパスハ様の許可書はお持ちでしょうか」

「……何?」

思いがけない言葉に、クラヴィスは驚きながら問い返す。

「先週こちらに通達がありまして、許可書がなければこの種のデータはお渡しできない事になりました。申し訳ありません」

研究員は身の置き所もないほど縮こまりながら、それでもきっぱりと答えた。

 歳月を数えるのも難しいほど永きに渡る任期において、研究院からデータ提出を断られた事など、これまで一度もなかった。詳細のみとはいえ、守護聖から育成結果を隠さなければならない理由など、あるのだろうか。

(そう……か)

闇の守護聖は、大きく息をついた。

 求めていた答の一つが、ここにあった。終焉の影響で、サクリアが通常の効果を出していないからこそ、それを隠そうとしているのだ。だとすれば、効果が薄れていると考えるのが妥当だろう。次回からは、指示より多めに放出する方が良いかもしれない。

 一つの手がかりを得た──そう思った瞬間、クラヴィスの足元の床が、大きく傾いた。

 データ室の机に手を着いて躯を支え、驚き駆け寄ろうとする研究員を手で制しながら、平衡感覚が戻るのを待つ。目眩を起こすほど疲れているとは、自分でも気づいていなかった。取るべき手段が見つかった安堵に、張っていた気が緩んだのだろうか。

 どうやら今夜は、無理に飛空都市に戻るよりも、私邸で休んだ方が良さそうだ。




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