闇の章・4−20




20.

 目眩が多少治まったのを見計らって、闇の守護聖はデータ管理室を出た。まだ足元がふらつくが、何とか自力で車寄せまで辿り着けそうだ。

 相変らず騒々しいホールに戻ると、奥の壁際に緑の守護聖が立っているのが見えた。揉め事でも起きたのだろうか、不機嫌そうに口を尖らせ、手振りを交えて研究員に話しかけている。関りたくはないが、人の多い中央部を避けるには、あの近くを通るしかない。

 気づかれないよう二三人分の間を開けて、闇の守護聖は少年の背後を歩き過ぎようとした。

「……わかってるよ、今日の分のデータは、自分で検索するきまりなんでしょう。でも、どうしてもやってほしいんだ」

聞く意思もない耳に、幼さの残る高い声が飛び込んでくる。クラヴィスは、思わず足を止めた。よく知った間柄というわけではないが、妙に上ずった強い調子も、強引に手伝わせようとする言葉も、この者にはそぐわないように思われたのだ。

「そのボタンを、ただ押してくれるだけでいいんだ。入力する数字は教えるから、ね」

気づかれないように振り返ると、当惑顔の研究員の手前に、傍らの機械を指差す少年の後ろ姿があった。腕だけを機械の方に延べ、躯の重心を不自然なほど反対側に引いている。まるで指差す先に、危険な、あるいは穢れたものでもあるかのように。

(これ……は……)

おぼろげな既視感を、クラヴィスは覚えた。何に対してだろうか、今と同じような印象を持った事がある。それも、ごく最近。

 闇の守護聖は、弱った身の許す限りに足を速めた。面倒に巻き込まれたくないだけでなく、早く静かな場所に行って考えたいと思ったのだ。



 私邸に馬車を走らせながら、クラヴィスは記憶を手繰りだした。似た感じを受けたからといって、状況が同じだったとは限らない。ここしばらくの日々を、全て振り返らなければならないのだろうか。

 改めて印象を蘇らせようと、先刻の光景を思い出してみる。 

『ボタンを、ただ押してくれるだけでいいんだ……』

あの言い方と、歪んだ姿勢。面倒を押し付けるというよりも、まるで機械に触れる事自体を嫌がっていたようだった。

 機械。そうだ、ゼフェルだ。

 闇の館の庭について話した時、鋼の守護聖の態度には、驚くほどの嫌悪と拒絶が現れていた。これまで幾度となく昼寝をしてきた庭が、彼にとって、なぜか我慢ならないものになっていたのだ。他人の私邸について口を出すという、不似合いな行動を取るほどに。

 一方、緑の守護聖は、日頃抵抗もなく操作していた機械に、今は触れるのも嫌な様子だった。怠惰でも横柄でもないであろう少年が、ただそれだけのために、自分の為すべき操作を、研究員にさせようとしていたのだ。

 マルセルとゼフェル。年少の者たちが揃って異様な態度を見せたのは、偶然か、それとも……

「……“段階”か」

ふと思い出した言葉を口に乗せ、闇の守護聖は慄然とした。リュミエールによると、確かルヴァがこの言葉を発したのは、マルセルと話した直後だったはずだ。ではこれが、終焉の影響なのだろうか。価値観や行動様式が変わってしまうほど、少年たちは心を蝕まれ、弱り始めているのだろうか。

 クラヴィスは少し考えてから、頭を振った。

 いや、少なくとも現時点でそれはないだろう。このような自分を含め、守護聖は常人よりも心身を強化されているのだから、マルセルやゼフェルが弱るのならば、先に宇宙中の住民が倒れているはずだ。

 そこまでの大事が起きているとすれば、女王とて隠しおおせるはずもないが、幸いにしてまだ、そのような報告は受けていない。

(だとすれば、あの言動は……)

心が弱っているのでないとすれば、彼らの中で、いったい何が起きているのだろうか。

 疲れた表情で、闇の守護聖は窓外を見た。当て推量で答えが出そうというのが、そもそも無理なのかもしれない。ルヴァは、いったいどういう意味で“段階”と言ったのだろう。あの者の事だから、書物から何かを掴んだのだろうか。

 聖地の暗がりの中に、闇の館の大きな輪郭が、浮き出るように現れた。そうだ、確か私邸には、代々の闇の守護聖が遺した記録類があったはずだ。せっかく戻ったのだから、眼を通してみる価値はあるかもしれない。



 留守を任されている老家令は、静かな声と微笑で、主の帰宅を歓迎した。

「お帰りなさいませ。夕食はおすみでしょうか。お休みになるのでしたら、寝室も整えてありますが」

「いや……書斎にコーヒーを持ってきてくれ」

 滅多に動じる事もない家令が、驚いたように眼を見開いた。無理もない、書斎に入るなど、久しくなかった事なのだから。向上心を持って自ら学んでいたのは、遥か昔の話だ。少しでも早く一人前の守護聖になれるよう、勉学に励んでいた頃。それが誰かを害する事になろうとは、思っても見なかった頃──



記憶の奥から放たれた鋭い光が、容赦ない槍のように心を貫いてきた。



 薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いている。

 激しい眼差しが、時空を越えて心を責めつけてくる。



 かつての女王と補佐官、金の髪の少年。彼らへの罪から気を逸らすため傷つけられた、かつての女王候補。永い過去の時間の全てに縫いこまれ、聖地ばかりか宇宙の端々にまで編みこまれた、許され得ぬ所業。何もかもが、この身の為した事だ。精神と肉体を幾度砕いても見合わない、終焉さえ近づいていなければ、今すぐにでも消滅してしかるべき科人こそが、自分なのだ。

 息が詰まり、頭が抉られるように痛みだす。しばらく遠ざかっていた鉛色の渦が、天地無辺を取り囲み、肥大していく。耳を聾さんばかりの震動音が、神経を巻き込み磨り潰そうと、全方向から迫ってくる。

(止めろとは言わぬ、せめて……)

身動きもできない恐怖と苦しさの中で、クラヴィスは切実な叫びを上げていた。

(待て……まだ、壊れるわけにはいかぬ……!)



「ご主人様!」

呼びかけと冷たい感触に、意識が引き戻された。靄のかかった薄暗い空間。ひんやりした静寂。

「……ああ、お気づきになりましたか。ご気分はいかがでしょう。医療院に連絡致しましょうか」

家令の声が、自分のいる場所を思い出させてくれた。居間の長椅子に寝かされ、冷たい布を額に当てられているようだ。そうだ、聖地に戻って放出を終え、それから私邸に来て……

「いらぬ……」

そうだ、調べ物をしようと思い立ったのだ。あの……部屋で。

 再び発作を起こさないよう、本能的に一部の記憶を避けながら、クラヴィスは身を起こした。

「……それより、調べたい事がある。歴代が残した記録類のリストはあるか」

「はい、館の分と図書館の分、両方ございます」

「図書館……?」

「ご存知とは思いますが、先代様の去られた後、陛下のご指示で、一部の資料が図書館に引き取られましたので」

そういえば、そのような事があったような気がするが、取りあえずは、手元にあるもので調べるしかないだろう。

 立ち上がろうとする主を、家令は控えめに制して言った。

「まだ動かれない方が宜しいかと思います。リストはこちらに持ってまいりますので、少しお待ちください」 

老人が足早に立ち去ると、クラヴィスは長い息をついた。あれほど心配するところを見ると、自分は相当酷い顔色をしているのだろう。試験に差し障りがないよう、朝には飛空都市に戻らなければならないというのに、このような調子で大丈夫だろうか。



 間もなく家令は、分厚いリストを二部運んできた。長椅子の中で身を起こし、出されたコーヒーを口にしながら、クラヴィスは眼を通し始めた。

 平穏な時代、女王交代などやや不安定な時代、文字や文法の異なるほど古い時代の記録もある。夥しい書名の隣には概略も載せられていたが、現存するリストの作成年代──どうやら、女王の代にして100代ほど前に整理されたようだ──よりあまりに古い書物の中には、“未解読”としか記されていない物もあった。

 何杯目のコーヒーを干した頃だろうか、クラヴィスは片手で額を押さえながらリストを閉じた。待っていたように歩み寄る家令に頭を振り、居間の虚空に皮肉な笑みを向ける。

「見事な選択眼だ……見たい書物は全て、持ち去られている」




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