闇の章・4−21




21.



「あー、ありがとうございます、クラヴィス」

地の守護聖は穏やかな笑顔を見せると、届けられた書類に眼を向けた。

「これは、二大陸の産業についてのレポートですね。なるほど、これがこうで、だから……」

独り言のように言いながら、ルヴァは次々とページをめくっていく。さっと眼を通すだけのつもりが、同僚を待たせているのも忘れ、つい興味を引かれてしまったようだ。声をかければいいのかもしれないが、うまく切欠がつかめない。手持ち無沙汰のまま、闇の守護聖はぼんやり室内を見回した。

 この飛空都市に聖殿が建てられて、まだ数十週しか経っていないはずなのに、不思議と落ち着きを感じる執務室だ。壁を埋め尽くす、この大きな書棚のためだろうか。

(書棚……書物……)

眺めているうちに、先日、私邸に戻った時の事が思い出された。



 あの夜、役立ちそうな蔵書が全て引き取られたと知った自分は、すぐさま図書館に向かおうとした。既に深夜になっていたが、守護聖の望みとあらば当直に言って開けさせられるだろうと思ったのだ。しかしそうなれば、責任者を呼び出すなど、事を大きくしてしまう恐れがある。その上、膨大な蔵書から必要な本を探し──中には、機械による自動出庫に耐えられない古書もあるだろう──運び出していたら、朝までかかってしまいかねなかった。

 飛空都市に戻るのが遅れ、試験に、ひいては、女王の救済に支障が出るのは、決して本意ではない。そう考えた末、結局その日は諦め、次の機会を待つ事にしたのだった。



(それにしても……)

地の守護聖に視線を戻し、クラヴィスは小さく頭を振った。

 数字と事実の羅列に過ぎないものを、同僚は貪るように読み進めている。誰より博覧強記でありながら、何と旺盛な知識欲だろうか。試験開始前には図書館にこもっていたと聞いたが、きっと今も機会を見つけては通い詰め、終焉について調べ続けているに違いない。意欲も知識も遠く及ばない自分が資料を手にしたところで、彼ほど多くを突き止められるとはとても思えないが、それでも、少しでもわかる事があれば──

 その時、書類が一段落したらしく、ルヴァが顔を上げた。

「あっ……!」

地の守護聖が、引きつった表情で叫んだ。その視線はしばらく空をさまよっていたが、間もなく同僚の面に向けられると、少し平静をとりもどしたように見えた。

「ああ、クラヴィス.……すみませんでした、つい夢中になってしまって」

人を待たせていた事に気づき、驚いたのだろうが、ここまで動揺しなくともよさそうなものだ。

「別に」

短く答え、クラヴィスは扉に向かった。



 白い石造りの廊下に出ると、前方に眼を引く色彩があった。隣の執務室の前に、いつもながら華やかな衣をまとったオリヴィエが立っているのだ。

 自室に戻ろうとして、ふと立ち止まったような風情だが、奇妙なのはその様子だった。表情も動きもなく、ただこちらを凝視したまま、立ち尽しているのだ。最初クラヴィスは、自分に用があるのかと思ったが、よく見れば、視線は背後の扉に向けられていた。ルヴァに会いたいなら、さっさと入れば良いものを、何を躊躇しているのだろうか。

 不審に思いながら、闇の守護聖はオリヴィエの横を通り過ぎた。



 闇の執務室には、新たな書類が届いていた。補佐官からの、新たな放出指示書である。

 クラヴィスは僅かに眉を開いた。再び聖地に戻る機会が、これほど早く得られるとは。もし今日、二大陸への育成依頼が来なければ、日の暮れる前に図書館に入れるだろう。

 そう思った時、扉を叩く音がした。

「……開いている」

入ってきた金の髪の少女を見て、クラヴィスは思わず顔をしかめた。女王候補に罪はないが、ぬか喜びというのは、決して気分のいいものではない。

 こちらの様子に怯んだのか、アンジェリークは躯を強張らせ、蚊の鳴くような声で言った。

「クラヴィス様、今日はお話を……しようと思って……」

闇の守護聖の唇から、安堵の息が漏れる。育成でないのなら、執務後に時間を使う必要はない。

「それで、何の話をしたいのだ」

「あの……」

なぜか一旦言い淀んでから、少女は続けた。

「リュミエール様の事を」

 途端に躯の奥で、熱を帯びた波が打ち始めた。どう答えよというのだ。誰より澄み、貴く、優しくまた強い者だと。その幸いのためならば、何を犠牲にしても惜しくないほど愛おしく、同じ想いを返されるためならば、どのような事もしてのけようほど恋しい者だと。そのような事を聞きたくて、問うているのか。

 口にできるなら、当人に告げているだろう。傷つけ困惑させ、気遣わせるのを恐れなければ。それ以前に、想いを抱く事自体が許されないのでなければ。

「……そうだな」

気を落ち着け、求められている情報を言葉にしようと試みる。恐らくここで言うべきは、言動の特徴や試験への関心などだろう。

 何とか無難に答えた後に、アンジェリークの事をとても気に入っているようだと付け加えると、少女の血色のいい面が一段と光り輝いた。

「ありがとうございました!」

礼をして退出する後ろ姿からも、元気が溢れ出ているようだ。

 クラヴィスは無言でそれを見送り、そして、ぐったりと背もたれに身を預けた。



 執務時間後、聖地に移動して放出を終えた闇の守護聖は、その足で図書館に向かった。私邸から持ってきたリストのうち、印を付けたものを借り出したいと、カウンターに申し出る。

 しかし係員は、しばらく検索した後、申し訳なさそうに答えた。

「恐れ入りますが、ご指定の書物は全て特別資料室の所蔵ですので、帯出禁止となっております」

「特別……資料室」

 久しく名を聞いていなかったそれは、図書館の中でも特に古く貴重な書物を収めるための部屋である。保存のため管理も厳しく、出入り口も別になっているが、研究者以外判読できない古代語で書かれた文献ばかりなので、守護聖でも殆ど訪れる者はない。

 それほど古い本が私邸にあったとは知らなかったが、遥か昔から受け継がれてきた蔵書なのを思えば、当然かもしれない。ずっと読まれることもなく保管されていたそれらを、先代の退任後に初めて研究家が調べ、リストにした上で一部を引き取ったというわけだ。おかげで書名と内容を知る事はできたが、古代語で書かれているのでは、自分が手にしたところで理解などできないだろう。

(結局、無駄足だったか……)

やはり、文献にあたるのはルヴァに任せるしかないようだ。地の守護聖ならば、古代語も易々と理解するだろうから。

 しかし、帯出禁止という事は、全て館内で閲覧しているのだろうか。試験前ならともかく、飛空都市で暮らすようになってからは、なかなかそのような時間が取れないはずだが。

 閲覧を諦めた代わりに、闇の守護聖は尋ねてみた。

「ルヴァは、ここや特別資料室には、よく来ているのか」

「いいえ、それが」

係員は、控えめに顔を曇らせた。

「少なくともこちらでは、しばらくお見かけしておりません。女王試験の始まった頃は、週に二三回ほど来られていたのですが。それから、特別資料室については……あ、ちょうど、専任職員が参りました」

 見慣れない制服を着た高齢の職員を手招きすると、係員はクラヴィスの質問を伝えた。

「いいえ。特別資料室にも、しばらくいらっしゃっていません。以前はよく、書庫に泊り込みで調べ物などなさっていましたが」

「来て……いない?」

 どういう事だろうか。日頃から図書館を第二の家のように使っていた地の守護聖が、宇宙の終焉が迫り、少しでも多くの知識が必要だという時になって、姿を見せなくなってしまったとは。全てを調べつくしたのか、それとも特別資料室の書物が──闇の館から持ち去られたものも含め──参考にならなかったのだろうか。

 地の守護聖の、書類を読みふけっていた姿が、我に返った時の狼狽ぶりが、クラヴィスの胸に蘇る。

 他人の行動やその理由を推し量ろうとしても、当然、全てがわかるわけではない。ルヴァも彼なりの方法で、宇宙のために懸命に尽くしているはずだと信じて、相手から働きかけてくるのを待つしかないのかもしれない。

 そう割り切ってもなお、闇の守護聖は同僚の言動に、言い知れぬ不安を覚えていた。




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