闇の章・4−26




26.

 入室してきた者の姿も声も、闇の守護聖にはまるで無限の時空を隔てているかのように、微かにしか感じ取れなかった。手に残る感触は薄らぐ事なく、むしろ刻を追うごとに強く、生々しく蘇ってくるというのに。

 侍従が書類でも届けにきたのだろうと、無言で小卓を指すと、相手はそれに従った後、なぜかリュミエールに話しかけた。

「そう……ですね、受け取っておきましょう」

問いかけは殆ど聞こえなかったが、答える声はくっきりと耳に入ってくる。侍従は水の守護聖に書類を手渡すと、逃げるように退出していった。

 扉が閉まって初めて、クラヴィスは自分が侍従の背を睨みつけていたのに気づいた。怒りにも似た不快感を隠そうと、急いで眼を閉じる。掌が燃えるように熱い。この手の中に、リュミエールの躯があったのだ。肩を掴み、動きを封じて──それから、何をしようとしていたのか。

 答えはわかっている。生じてはならない、在ってはならないと抑え続けてきたものに、ついに追いつかれてしまったのだ。想いを向けるだけでも許されない相手に、それ以上を、心身の全てを欲するようになってしまったのだ。

(終わった……な)

礫のように降り注ぎだした痛みの中、クラヴィスは抗いもせず立ち尽くしていた。

 幾人もの人を傷つけて知らぬ顔をしていた者が、誰かを想うという許されざる喜びを得、さらに相手を求めるようにさえなっている。罪の重さも、行き着くところまで行ってしまったようだ。

 もし宇宙が今、危機に瀕していなければ、すぐにでもサクリアを失い、業火の中に打ち捨てられていただろう。この命が長らえているのは、守護聖交代などしている時ではないという、ただそれだけの理由に過ぎない。女王が宇宙を救済する時が、自分にとっての終わりとなるだろう。そして遠からず、それは成就されなければならないのだ。



 重く濃い闇に埋もれていると、不意に、喜びに満ちた呼びかけが聞こえてきた。

「クラヴィス様……ランディが面会可能になったそうです。それに、私に会いたいと希望している、とも書いてあります」

優しい声が、明るさを増して余計に美しく響く。闇の守護聖は、少し考えてから、事態を把握した。先刻の侍従が持ってきたのは、風の守護聖が回復したという報せだったのか。それがお前にとっては、ここまで喜ばしいのか。

 やはり、と口にしかけて、闇の守護聖は言葉を飲み込んだ。科人が美点を告げたところで、何の足しにもなるまい。

「すみません、お話の途中でしたのに、別の話をしてしまいました」

沈黙を誤解したのか、水の守護聖が申し訳なさそうに謝ってくる。

 クラヴィスは静かにそれを否定し、医療院に行くよう促してやった。この自分など、気に掛ける必要はない。破滅への途についた者など捨て置いて、お前は生きる者の世界に戻るのだ。

「ありがとうございます。では、急いで行って参ります」

律儀に礼をして去っていく姿が、消え行く残照のように見える。

 それ以上眼を向けていると呼び止めてしまいそうだったので、闇の守護聖は急いで執務机に戻った。



 室内には、再び沈黙が戻ってきた。しかし、己を守ってくれるはずのそれが、今は危険を宿しているのを感じる。他事がなければ、たちどころに自分の想いが、一つの声、一つの音色を求め始めるとわかっているからだ。

 そこから意識を引き剥がすように、クラヴィスは書類に眼を通し始めた。小卓から取り上げた一枚は、リュミエールの言ったとおり、風の守護聖が面会できるまでに回復した事を告げてきていた。当然ながら、こちらには面会希望など載っていなかったが、事件以来僅かに安定を欠いていた風のサクリアも、これで元の状態に戻っていくのだろう。

(元の状態……か)

あの転落の前、風のサクリアに、特に変わった様子は見られなかった。健やかそのものの少年が、たった一つの言葉で理性を失うほど心を弱らせていたのなら、少なからず兆候が現れていそうなものだが、彼の力が弱まっているのは感じられなかった。それとも、気づかなかっただけなのか。

 曖昧な記憶を確かめるべく、闇の守護聖は部屋付きの侍従を呼び、王立研究院に向かうと告げた。



 馬車が車寄せを出たところで、クラヴィスは窓のカーテンを開いた。沈黙の中に声を求めたように、闇の中に面影を追ってしまいそうだったからだ。

 見るともなく外を眺めると、手入れされた潅木の間を、鮮やかな色彩を纏った者が歩いていた。誰だか知れぬが、夢の守護聖のような服装だと思い、それからはっとして振り返る。

 車窓から遠ざかっていく姿は、他でもないオリヴィエだった。ただ、いつもの余裕ある雰囲気とはかけ離れた、重く神経質な足取りで歩いているため、別人に見えてしまったのだ。ここでもまた、守護聖の異変が起きているのか、それとも、たまたま気に障る事でもあったのだろうか。

 クラヴィスは背もたれに身を預け、息をついた。考えなければならない事が多すぎる。体力も時間も、もう殆ど残っていないというのに。




闇の章4−27へ


ナイトライト・サロンへ


闇の章4−25へ