闇の章・4−28




28.

 翌朝、普段より早く聖殿に向かったクラヴィスは、執務室で落ち着かない時間を過ごしていた。

 リュミエールは無事だろうか。昼の休憩時間になれば、また部屋を訪ねてくるだろうとは思うが、その前に様子を確かめる方法はないものだろうか。書類を届けに行く用でもあればと思うが、このような日に限って、水の執務室に回すものが一通もない。

 仕方なく執務に取り掛かってはみたが、時間が経つのがうんざりするほど遅い。とりあえず、地の守護聖に回す書類が一通仕上がったので、これを届けにでも行ってくれば、少しは気が紛れるだろうか。



「あー……どうぞ、お入りください」

扉を叩くと、力ない声で返事があった。

 クラヴィスは地の執務室に入り、無言でルヴァの前まで進んだ。近くから改めて見ると、やはり顔色が悪く、全体にやつれているようだ。これも、サクリア増大の悪影響だろうか、

「クラヴィス?」

怪訝そうに問われて書類を差し出すと、同僚の眼が一瞬だけ、燃え立つように輝いた。

「これは……いえ、ありがとうございました」

ルヴァはすぐ穏やかな表情に戻り、いつもののんびりした調子で礼を言ったが、その声には震えが残っていた。

 書物に、知に飢えているのだと、闇の守護聖は思った。苦しくないはずがない、何よりも愛好している書物の類を、自らの意志で遠ざけているのだから。

 視線をそらせたクラヴィスは、壁面を占める書棚に、いつの間にか、暗色のガラス扉が取り付けられている事に気づいた。本当ならば書物を他所に移すか、せめて覆い隠しておきたいところだろうが、それでは誰もが異常に気づいてしまう。だから、保護のためと言いつくろえる方法で、できるだけ中身が見えないようにしているのだろう。

 自らを守るためとはいえ、ここまでしなければならないのか。それほどの危険が、自分たちに迫っているという事か。

(ならば、リュミエールは……)

唐突に湧き上がった不安に背を押され、クラヴィスは挨拶も忘れて地の執務室を出た。

 あの者は、まだ危険に気づいていないのだ。今すぐ、会いに行かなければ。訪問の口実など、後から考えればいい。



 大股で廊下を進む闇の守護聖の耳に、どこかから柔らかな声が聞こえてきた。何を言っているのかはわからないが、あの優しい響きは、紛れもなく水の守護聖だ。続いて聞こえた高い声は、金の髪の女王候補だろうか。近くで立ち話でもしているのなら、執務室に行かずして様子を見られるかもしれない。

 間もなく階段の下に着くと、その半ばほどに、リュミエールとアンジェリークが立っているのが見えた。だが驚いた事に、青年は少女の両肩に手を置き、相手の眼を覗き込むように顔を近づけている。

 驚愕と衝撃が、クラヴィスを襲った。二人はなぜ、あれほど近づいているのだ。あのように親密そうなのだ。まるで──彼らの心が、非常に近しくなってでもいるかのように。

 その状態がどれほど続いただろうか、リュミエールが徐に手を下ろして相手に話しかけると、少女は何事か答えてからようやく身を離し、一人で階段を上って行った。

 我知らず長い息を漏らすクラヴィスの前で、水の守護聖はなおも少女の後ろ姿を見つめ、それから、ふと気づいたようにこちらを振り向いた。いつもと変わらず優しく清廉な表情が、階段を下りてくるに従って、なぜか気遣わしげに曇っていく。

「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」

眼の前まで来た青年は、突然、謝罪を口にした。

「配慮……だと」

闇の守護聖は、暗い怒りが沸き立つのを覚えた。どのような配慮だ。少女と話すのに、人目を避けるべきだったとでもいうのか。隠れなければならないような、疚しい感情で接していたというのか。

 だが、続けて説明されたのは、全く異なる事情だった。少女はランディの事故を予感し、更に現実となった事を知って、ひどく動揺していたのだという。それを知ったリュミエールは、女王のサクリアを思えば、このような可能性も考えておくべきだった、事故後すぐ様子を見に行くべきだったと、自らの落ち度として悔やんでいるのだ。

「……そういう事か」

要らぬ誤解をしていた事に安堵と自責を感じながら、しかし闇の守護聖は、新たな驚きを覚えずにいられなかった。事故直後といえば、他ならぬリュミエール自身が、激しく動揺していたはずではないか。女王候補にまで気が回らなかったからといって、誰に責められるだろうか。

 宥めてやりたいが、どう話したらいいかわからない。やむなく沈黙したクラヴィスに、水の守護聖は付け加えるように言った。

「後で、ディア様にもお伝えしておくつもりです。ロザリアにも、同じ事が起きているかもしれませんから」

闇の守護聖は、心中で大きく息をついた。これが、リュミエールなのだ。たとえ自分が弱っていようと、他を思いやる事を止めない。傷つく者がいないかと、常に全方位に気を配り、いつでも温かく包もうとする。これほど大きな優しさに、悪い影響などあるはずもない。助けようなどと、思うさえもおこがましい事だった。

 それでも、だからこそ、案じずにはいられないのだが。

「お前は……本当に、誰にでも優しいのだな」

独り言のように呟くと、クラヴィスは急に疲れが押し寄せてくるのを感じた。

 乾いた土のように、意識がぼろぼろと崩れていきそうだ。そういえば昨夜は、これまでになく長時間、同僚たちの異変について考えていた。その挙句、ようやく見えてきた答が不安をもたらして寝られず、加えて今朝は、ずっと激しい感情に翻弄され続けていたのだから、消耗していないはずがない。

 闇の守護聖は相手から視線を外し、階段を上り始めた。弱った様子を見せて、また気を使わせるのは忍びない。美しく広大な海が、一片の雲影に煩わされる必要など、どこにもないのだ。

 一瞬、背に視線を感じたような気がしたが、きっと思い上がりからきた錯覚だったのだろう。




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