闇の章・4−29




29.

 控えめな鐘の音が、執務時間の終わりを告げた。外光の閉ざされた部屋では知る由もないが、もう飛空都市の日も色づき、傾き始めているのだろう。

 だが室内には、まだ今日の分の書類が山と積まれていた。先に仕事を終えてきた水の守護聖が、処理しやすいようにまとめ、必要な資料を添えるなどしてくれて、なおこの有様である。

 新宇宙は育成が進んだため、元宇宙は終焉が迫っているためという正反対の理由ではあるが、いずれに関する書類も、ますます多く届くようになってきた。その全てを読みこなして、記載されている星、あるいは星域の状態を把握し、自らの力に沿って分析した上で、どのような干渉が必要かを提言する──言葉にすればそれだけの事だが、多くの運命を左右しかねない職務だけに、処理には慎重を期さなければならない。

 また、就任して時の経った守護聖ほど、これまでの職務経験を手がかりとして、より詳細に多面的に分析するようになるため、一件あたりに費やす時間は、どうしても長くなってしまう。



 ようやく最後の書類が片付いたのは、日もとうに沈んだであろう時間だった。

「お疲れ様でした。宜しかったら、お茶でもお入れいたしましょうか」

投げるように背もたれに身を預けたクラヴィスに、水の守護聖が声を掛けてくる。

「うむ……いや」

闇の守護聖は、頷きかけてから考えを変えた。連日の長い補佐で、リュミエールも疲れているかもしれない。心なしか今日は、気分が優れないようにも見える。ならば、当人にも楽しみをもたらす事を頼んだ方がいいのではないか。

 そう思って竪琴の演奏を請うと、果たして水の守護聖は、嬉しそうに楽器を取りに行った。



 静寂の戻った部屋で、闇の守護聖は物思いに沈んでいた。

 こうしてリュミエールの竪琴を聴く機会も、あと何回残されているのだろう。日々着々と近づいてくる試験の終了は、恐らく、女王の救済の鍵となる。その時まで、自分は意識を保っていられるだろうか。

 自ら犯した二つの罪は、まともに向きあえば心を押しつぶされるであろう非道なものだった。一時的に先延ばししているに過ぎないとしても、今まで持ち堪えられたのが不思議なほどに。

 そこには、あるいは自分以外の力も働いているのかもしれない。闇の守護聖を今失うわけにはいかないという宇宙自身の自衛、それに、救済の時まで宇宙を保とうとする女王の力が作用して、何とか破滅を免れているのではないだろうか。

 ならばやはり、救済が成功し、宇宙が安定を──守護聖が誰か欠けても、一時的には支障ないほどに──取り戻した時が、自分の終わりとなるのだろう。先延ばしにする理由も助力も消え、今度こそ容赦なく激しく、罪が心を裂きに来る。肉体が命を繋ぎ得たとしても、意識が二度と抜け出せない混沌に陥るほどに。

 そうなればきっと、守護聖の任も果たせなくなり、代わりに新たな者が見出されるはずだ。抜け殻となった前任者など捨て置いて、宇宙は息づき、時は流れていくだろう。きっとそこでも、リュミエールは微笑み、竪琴を奏で続けるだろう……



 心に走った痛みを、闇の守護聖は自嘲とともに受けとめた。今さら、何を恐れているのだ。離れたくない、忘れられたくないとでも思っているのか。そうなった方が、よほどあの者のためだろうに。

 気に掛ける価値もない相手にここまで心を尽くし、労わってくれただけで、充分すぎるではないか。今もまた、この自分のために、疲れた身を押して楽器を持ってこようとしているのに──



 クラヴィスは、突然、我に返った。水の守護聖が部屋を出て行って、どれほど経ったのだろう。ずいぶん長い間考え込んでいたような気がするが、ほんの一瞬だったのだろうか。

 確かめると、すでに短からぬ時間が過ぎているのがわかった。リュミエールが竪琴を取りに行った事は何度もあるが、これほど待たされたのは初めてだ。何か急用ができたのだろうか。だとしても、あの律儀な者が連絡を寄越さないはずがない。

 補佐している間の、どこか沈んだ表情が眼に浮かぶ。そういえば昼休憩の時も、ふと遠い眼差しになる時があった。ただの疲れだと思っていたが、問題でも抱えていたのだろうか。

 不安に背を押されるように、闇の守護聖は立ち上がった。このまま待つくらいなら、リュミエールの部屋に行った方がいい。

 今日はもう戻らないと侍従に告げ、クラヴィスは執務室を後にした。



 水の執務室の扉を叩いても、もどってくるのは沈黙だけだった。部屋の主だけでなく、侍従もいないようだ。他を探すべきか迷いながらノブに手を掛けると、扉は音もなく開いた。鍵をかけていないという事は、まだ聖殿のどこかにいるのだろうか。

 見慣れた水色の室内には、照明が点いたままだった。執務机の上は、卓上用の筆記具と数冊の古い楽譜を残して片付けられている。傍らの床には竪琴が、主を待つかのように置かれていた。

 いったい、何が起きたというのだ。侍従を帰らせているところをみると、一度はこの部屋に戻ったようだが、灯りを消す余裕もなく再び出て行くなど、普段のリュミエールにはありえない事だ。

 昼間からの様子を、もっと気にかけてやればよかった。心配でもあるのかと、尋ねるべきだった。リュミエールなら大丈夫だと決め付けて、己の問題と多忙にかまけて、もし取り返しのつかない事になっていたら。

 心配と不安、そして後悔に苛まれながら、闇の守護聖は立ち尽くしていた。




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