闇の章・4−x




30.

 どれほどの時が流れただろうか、ふと気配を感じて、クラヴィスは振り向いた。

 開いた扉を背に、リュミエールが立っている。だがその様子は、先刻とは別人のようだった。今にも倒れそうなほど窶れ、蒼ざめている。生気を失った面の中、虚ろな青い両眼だけが別の生き物のように燃え立って、激しい苦悶を湛えている。

(まさか……)

クラヴィスは、愕然とした。リュミエールまでもが、サクリアに囚われてしまったのか。

 見つめているうちに、青年の表情は少しずつ、苦しみから驚きに変わっていった。自分を取り戻し始めているのか、眼の焦点も次第に合ってきたようだ。

「クラ……」

唇から漏れた言葉からすると、どうやら現実を認識し始めたようだ。クラヴィスは、いくらか安堵すると同時に、強い自責を覚えていた。リュミエールなら大丈夫だなどと、どうして勝手に思い込んでいたのだろう。どうして、兆候に気づいてやれなかったのだろう。

「クラヴィス……様……」

 ふらつきながら一歩ずつ近づいてくる青年を、闇の守護聖は祈るような持ちで凝視していた。このまま、無事に元のリュミエールに戻ってくれるだろうか。戻らなければ駄目だ。戻ってくれ、どうか。

 しかし、あと数歩という所まで来て、リュミエールは前に倒れかかった。急いでクラヴィスが歩み出ると、青年はその胸に飛び込むようにしがみついてきた。

 腕の中に、リュミエールの全身がある。震えるほどの陶酔を覚えて、クラヴィスもまた相手の背に腕を回した。愛おしさだけが、そこにあった。息づいている躯を、そのしなやかな張りを温もりを、貪るようにかき抱いた。頬に触れる髪の柔らかさを味わい、優しい眼差しを求めて瞼を開いた。

 その時、前方で何かが動いた。はっとして視線を向けると、淡い色が閃くように部屋から去り、廊下側から扉が閉じられるのが見えた。

(誰かが、そこにいた──)

驚きが冷水のように意識を醒まし、自分が何をしているのかを思い起こさせた。

 クラヴィスは、総身から血が引いていくのを感じた。突き刺すような痛みが、頭から臓腑からこみ上げてくる。崩れ落ちそうになった闇の守護聖は、それでも必死で体勢を保とうとした。青年はまだ、こちらに身を預けている。自分が支え続けなければ、今にも倒れてしまうだろう。

 両腕を下ろして、心身に残された力をただ立ち続ける事だけに集中していると、やがて水の守護聖が静かに身を離すのが感じられた。どうやら、一人で立てるほどには回復したようだ。

 心中で安堵の息をつきながら、クラヴィスは打ちのめされていた。人を想う資格もない身で、いったい何という事をしてしまったのだ。報いきれないほど尽くしてきてくれたリュミエールを、何と酷く裏切ろうとしていたのだ。あのように弱っているところに、卑劣にもつけ込んで、身勝手な喜びを追い求めて。

 謝罪の言葉も見出だせないまま水の守護聖を見ると、青年は辛そうにうなだれていた。先刻の憑かれたような表情は消えているが、まだサクリアに囚われた影響が残っているのだろうか。

 聞き出して安らぎを与えてやりたいところだが、今の自分にそこまでの力が残されているかどうか、自信がない。ひとまず今夜は帰らせ、休ませたほうがいいだろう。この満身を走る痛みを、万が一にも気づかれたなら、リュミエールに更なる心痛を呼び起こしてしまいかねない。

「……帰るぞ」

乏しい力を振り絞って、闇の守護聖は声をかけた。足を引きずるようにして扉に向かい、体重を掛けて押し開く。

 そこにはもう、誰もいなかった。水の守護聖が後ろから着いてくるのを感じながら、クラヴィスは灯りの落とされた廊下を進んでいった。



 中央階段を下りると、開いた扉から薄暗い廊下に、灯りが漏れ出していた。位置からすると、夢の守護聖がまだ執務を続けているようだが、通常、扉は閉めてあるはずだ。しかも、なぜか薬品のような匂いが漂ってくる。

 見に行く前にリュミエールを帰すべきか、クラヴィスは迷ったが、青年はだいぶ落ち着きを取り戻し、既にこの様子に気づいているようだ。ならば、共に不審を解いた方がいいかもしれない。

 連れ立って灯りの方に向かい、扉口から覗き込むと、主のいない室内はひどく乱れていた。化粧品類の小瓶が棚から机、床にまで転がっている。その中央に、なぜか地の守護聖が立っていた。

「どうしたのだ、ルヴァ」

尋ねてみても、返事がさっぱり要領を得ない。どうしたのかと困惑していると、意外にも、水の守護聖が口を開いた。

「ディア様から連絡を受けて、医療院に行かれたのですね。けれど、オリヴィエが眠っていたので面会できず、少しでも事情がわかればと、こちらに足を運ばれた……」

(……ディア!)

思い出した。先刻、扉が閉まる前に一瞬だけ見えたのは、補佐官のドレスの色だった。

 リュミエールを訪ねてきたのだろうか。あの抱擁を眼にしたところで、ただ支えているとしか思わなかったただろうが、水の守護聖が一人で立てないほど弱っているのを見て、出直す事にしたのだろうか。

 いったい、ここで何があったのだ。竪琴を取りにいった後、リュミエールはここに来たのか。それが、水のサクリア暴走のきっかけとなったのか。

「リュミエール、何があった。お前は何を知っている」

思わず詰問口調で尋ねると、水の守護聖はまた蒼ざめてしまった。クラヴィスは急いで質問を取り消そうとしたが、その前に青年は、気丈な声で話し始めていた。

「オリヴィエが、手を……傷めたのです。昼間から様子がおかしいと思っていましたが、先ほど不安に駆られてここに来ると、あの人は両手を血だらけにして、爪の手入れをしようとしていました。何時間もの間、マニキュアを塗ったり落としたり、やすりをかけたりしていたようです」

 クラヴィスは、胸の中で喘ぎを漏らした。何というものを見てしまったのだ。オリヴィエの行動もサクリアのせいかもしれないが、昼間から心配していたところに、そのような同僚の姿を目の当たりにしてしまうとは、リュミエールにとってどれほどの衝撃だっただろうか。

「やめるよう言っても耳を貸してくれなかったので、侍従を呼んで力ずくで止めました。今は治療を受けて、ディア様に付き添われ、医療院で休んでいます」

一呼吸入れてから、水の守護聖は姿勢を正し、クラヴィスの方に向き直った。

「そのようなわけで、クラヴィス様にはご迷惑をおかけしてしまいました。連絡もせずに長い時間をお待たせしてしまって、本当に申し訳ありません」

闇の守護聖は、長いため息をついた。自らのサクリアが暴走するほど心を痛めていながら、いったい何を謝る必要があるというのか。いったい、どこまで他人を思いやり続けるのか。お前ほど大切なものは、他にないというのに。

 口にできない想いを抑え、ただ気にしないようにと答えかけた時、それまで微動だにせず話を聞いていた地の守護聖が、いきなり動き出した。壁際に歩み寄ると、床に落ちた紙束を拾い集め、無言で部屋を出て行こうする。

 彼らしからぬ行動に、クラヴィスは思わず声をかけた。

「どうした、ルヴァ!」

すると地の守護聖は、決然とした表情で振り向いた。

「私は……間違えていたようです。危険を避け続ける事こそが、この窮地を乗り越える唯一の道だと思ってきましたが、そうではなかった。ただ自分が可愛かっただけなんです──あの人を、こんなに傷つけてしまうなんて!」

長い付き合いの中でも聞いた事がない、異様といえるほど熱の籠もった声。

「もう逃げません。これからは、自分にできる事をするつもりです。できる方法で、できる限りの事を」

(サクリアか……いや)

先刻のリュミエールのような、不安定な様子は見られない。それに、知のサクリアの暴走にしては、感情的過ぎるような気もする。単に、自分の考えに夢中になっているだけだろうか。それにしては、何か不穏なものを感じるのだが。

 考えている間に、地の守護聖は軽い会釈を残して退出していく。

「ルヴァ……早まるなよ」

同僚の後ろ姿に、クラヴィスは祈るような気持ちで呟いた。




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