闇の章・4−31
31.
ルヴァが立ち去った後、部屋には静寂と、二人の守護聖だけが残された。
深い息をつくと、クラヴィスは扉に向かった。このまま留まっていれば、両の腕が青年の感触を思い出してしまいそうだったからだ。
水の守護聖が後に続く気配を感じながら、車寄せへと急ぐ。そもそもリュミエールを早く私邸に戻らせ、休ませようとしていたはずなのに、思いがけず寄り道をしてしまった。おかげで事情を知る事はできたが、もっと話を聞いて安らぎを与えてやりたくとも、今夜の自分にはもう、それだけの力が残っていない。
ようやく車寄せに着いたクラヴィスは、振り返りもせず暗色の馬車に乗り込んだ。しかし、なぜか御者が扉を閉めようとしない。苛立ちを覚えながら振り返ると、リュミエールが馬車の傍らに立っていた。
沈んだ表情、それでもなお感嘆せずにいられない端正さに、今更のように胸が打たれるのを感じる。だが、なぜここにいるのだろうか。とうに自分の馬車に乗っていると思ったのに。
「ご一緒に乗られるのでしょうか」
事情も知らず尋ねる御者に、青銀の髪の青年は頭を振って答えた。
「いいえ、あの──クラヴィス様、お疲れ様でした。お休みなさいませ」
「……ああ」
まさか、挨拶をするためだったのか。傷つき疲れている身で、なお礼を尽くそうとしていたのか。そう思うといっそう愛おしさが募ってきそうで、闇の守護聖は急いで馬車を出させなければならなかった。
私邸に近づいていく一歩一歩が、リュミエールとの距離を広げていく。それは苦痛であり、救いでもあった。一瞬でも長く、僅かでも近くに青年を感じたいと心は願ってやまないが、離れていさえすれば、少なくともそれを行動に出さないですむ。そう、弱って支えを求めてきたのに乗じ、身勝手な想いのまま抱きすくめてしまうような、許されざる卑怯な行動には。
足取りも覚束なげに入室してきた姿が、懸命に動揺を堪えていた表情が、思い起こされる。誰より繊細な心の持ち主が、医療院が関るほどの同僚の錯乱に、一度ならず二度までも立ち会ってしまうとは、何という巡り会わせなのだろう。どれほど衝撃を受けた事だろう。
(二度……か)
カーテンを開け、窓外を流れていく闇を眺めながら、クラヴィスは痛ましげに呟いた。
しかも今度は、リュミエールと親しい夢の守護聖に、それが起きてしまったのだ。守護聖の中でも強靭な神経を持つ者だと思っていたが、そうでもなかったのだろうか。あるいは、よほど酷く心乱される出来事でもあったのだろうか。リュミエールによると、昼間から様子がおかしかったという事だったが、誰か他に、異変の兆候に気づいた者はいないのだろうか。
闇の館の寝室に向かっている途中で、ある名前が頭に浮かんだ。
ルヴァ。連絡を受けてすぐ医療院に駆けつけ、その後わざわざ無人の執務室を訪れて、何事かを決意していた、地の守護聖。あの様子からは、単に元教育係という以上の、激しいほど強い意識が感じられた。そういえば、床から拾い上げた紙の束を、なぜか大事そうに抱えて行ったが、何か意味があるのだろうか。ちらりと眺めただけだったので、古そうな紙としかわからなかったが、もっとよく見ておくべきだったかもしれない。
考えれば考えるほど疑問が増えて、眠りを遠ざけていく。せめてこの夜が、リュミエールに少しでも休息を与え、癒してくれるといいのだが。
(リュミエール……)
封じるべき想いが、また禁を破って溢れそうになる。
甘美すぎる記憶と愛おしさ、罪の痛み、不安と疑問が渦なす胸を抱え、闇の守護聖はまた眠れない夜を過ごさなければならなかった。
翌朝、クラヴィスが重い心身を引きずるように聖殿に辿り着くと、執務時間前に集いが開催されるという連絡が届いていた。夢の守護聖の件ならもう知っているのだから、できるなら欠席したいところだが、そうもいくまい。時間を考えれば、もう出向いた方がよさそうだ。
だが、机から立とうとしても、なかなか力が入らない。どうしたものかと思っていると、扉にノックの音が聞こえてきた。
「……開いている」
仄かな期待と共に答えると、果たしてリュミエールが、その美しい姿を現した。
あまり疲れが取れなかったのか、顔色は優れなかったが、いつもの優しい声で集いへの同行を申し出るのを聞くと、不思議と心が穏やかな明るさに包まれる。立てるかもしれないという気持ちになり、実際に足に力が入るようになった。
ゆっくりと歩き出し、連れ立って集いの間に向かいながら、闇の守護聖は昨夜の事を謝罪すべきかどうか迷っていた。許されざる感情から発した行為ではあったが、こちらの想いが気づかれていなければ、ただ支えただけという事になる。そのままにしておいた方が、リュミエールの心も平穏を保てるだろうか。
少し考えてから、クラヴィスは沈黙を守ろうと決めた。理由も伝えず謝られても、かえって困惑するだけだろう。ただでさえ消耗している青年に、そのような思いをさせる必要もあるまい。
集いの目的は、やはり、夢の守護聖についての連絡だった。どうやら、体調不良のためしばらく執務を休むという話になっているようだ。それ自体、本来なら起こるべからざる事なのだが、特に質問が出なかったのは、全員が異例な事態に慣れてしまったからだろうか。
ルヴァはどのような表情でこれを聞いたのかと、視線を巡らせてみて、クラヴィスはその不在に気づいた。このような時期に、出張でも入ったのだろうか。前回の集いでは、そういった連絡はなかったはずだが。
すると、補佐官が平静な声で全員に問いかけた
「ところで、ルヴァがいないようですね。こちらには何の連絡も入っていませんが、誰か伝言を預かっている人はいませんか」
誰も答える者はない。侍従か誰かに連絡を頼んだのを、失念されているのだろうか。まさか、昨夜あのまま、行方をくらませてしまったとは思われないが。
「ゼフェル、何か聞いていませんか。それともマルセル……」
「聞いてねーよ」
「僕も聞いていません。どうしたんだろう……」
少年たちが、不安を隠しきれない声で答える。
「そう……では、クラヴィスはどうですか」
地の守護聖と比較的関りの深そうな者に、順番に聞いているのだろうか。しかし他の者たち同様、クラヴィスもただ頭を振るしかできなかった。
穏やかな表情を崩さないまま、ディアは次に水の守護聖を見つめた。
「リュミエール、あなたはどうですか。ルヴァから何か聞いていませんか」
青銀の紙の青年は、珍しく他所事でも考えていたのか、少し間を空けてから、焦ったように答えた。
「……いいえ、何も」
そこまで聞くと、ディアはひとまず諦めたように、後で自分から連絡すると言い、集いを解散させた。