闇の章・4−32




32.



 地の守護聖の無断欠席に、クラヴィスはあまり関心を惹かれなかった。

 昨夜の不審な様子を忘れたわけではなかったが、この程度の事ならば、単純な行き違いでも起こりえる。一々気にするほどでもないだろうと思っていたのだ。

 しかしその夜、地の執務室にに書類を届けに行かせたリュミエールが、蒼ざめた面でこう報告した。

「ルヴァ様は今朝から、執務室にも私邸にもいらっしゃらず、何の連絡も届いていないそうです。ディア様には侍従からお知らせしてあるとの事でしたので、とりあえず書類だけ置いてまいりました」

「まさか……」

闇の守護聖の胸を、不吉な考えが過ぎった。丸一日の執務を断りもなく放棄するとは、およそあの者らしくない。ついにルヴァまでもが、サクリアに囚われてしまったのだろうか。風や夢の守護聖たちのように、どこかで独り、我を失っているのだろうか。

 しかし地の守護聖は、自分などよりよほど前から、この危険を察知していたはずだ。それなのに、みすみす同じ轍を踏むだろうか。むしろ前もって予防策を練り、実行していたのではないだろうか。

「いや、ルヴァの事だ。よほどの弱みでもない限りは、大丈夫だろうが……」

独り言のように呟いて、クラヴィスは疑念を抑えこんだ。自分たち年長者にまで、中でも、最も感情に流されにくそうなルヴァにまで暴走が及ぶとは、思いたくなかった。きっと、何か事情があるのだろう。きっと明日になれば、申し訳なさそうな表情をして姿を現すに違いない。

 一つ息をついてリュミエールに視線を向けると、俯いて何事か考え込んでいる様子である。こちらの疑念が伝わって、不安がらせてしまったのだろうか。ただでさえ、同僚たちの暴走を二件も目の当たりにし、心を痛めている最中だというのに。

「リュミエール」

口をついて出た呼びかけに、闇の守護聖は驚いていた。何をしてやれるわけでもないだろうに、呼びかけてどうしようというのだ。

「……はいっ」

驚いたように答えた優しい面には、まだ怯えたような影が残っている。

 クラヴィスは突然、己が腕で青年をかき抱きたい衝動に駆られた。頭から肩、背から腰、昨夜の感触そのままに、穏やかな微笑が戻るよう、全てを尽くして慰めてやりたいと思った。

 今、その全身を預けてくれるなら。たとえサクリアのためだろうと、もう一度自分を求めてくれたなら、そのまま共に終焉を迎えられたなら、二度と離さないですむのなら──

 詮無き願いに、クラヴィスはひとり頭を振った。自分はともかく、リュミエールまで破滅に引き込もうなど、どうかしている。今は二人とも、早く私邸に戻り、休養した方がいいだろう。特にリュミエールには、ただでさえ執務を手伝わせ、帰宅を遅らせているのだから。

「帰るぞ」

虚しい願望を断ち切るように声を掛け、闇の守護聖は立ち上がった。背後から聞こえる小さな返事は、疲れか不安か、その双方が力を奪っているためだろうか。

 この上なく大切な相手なのに、共にいればいるほど負担を掛けてしまう。クラヴィスはそんな己に、嫌悪を越えた乾いた怒りを覚えていた。



 翌日、いつものように執務時間が始まり、午前が過ぎた。地の守護聖を見かける機会はなかったが、偶然なのか不在によるものなのか、クラヴィスには知る由もなかった。

 やがて昼の休憩時間が訪れ、いつものように水の守護聖が、竪琴を携えてやってきた。ルヴァについて尋ねると、自分と同じように今朝は会っておらず、また、それをどう捉えればよいか迷っている様子だった。

 闇の守護聖は青年を宥めてやろうとしたが、安心させられるような情報もなければ、気の利いた言葉も出てこない。下手な事を言って、また不安がらせてしまうのは何としても避けたいところだった。

 しばらく考えてから、クラヴィスは無言のまま、身振りで演奏を促した。



 午後の執務が始まると、リュミエールの去った執務室に、金の髪の女王候補が訪れた。

「クラヴィス様、育成のお願いに来ました。エリューシオンに、闇の力を少しだけお願いします」

「少しだな……わかった」

低く答えながら、クラヴィスは相手の自信に満ちた口調に、今さらのように感慨を覚えていた。

 試験開始時を思えば見違えるほど、アンジェリークは成長していた。育成を知り尽くし、民の望みを正しく掴みながらも振り回されず、先を見通して大陸を育てている。今やエリューシオンには危なげなところもなく、ほぼ全域に渡って充実した人間の大地となっていた。

 それはフェリシアも同じであり、ロザリアの優秀さは誰もが認めるところだったが、当初の差があまりに大きかったために、どうしてもアンジェリークの成長度合いが際立って感じられてしまう。この事を、今後への期待に繋げて考えるべきか、逆に、伸び代を使い切ってしまったのではと危ぶむべきかは、守護聖によって意見が分かれるところだった。

 いずれにしろ、大陸の様子から判断すれば、試験は最終段階に入ったといえるだろう。それはつまり、次期女王の決定、ひいては終焉を迎える宇宙の救済が、間もなく行なわれる事を意味する……

「あの、クラヴィス様」

いきなり呼びかけられて、闇の守護聖は物思いから醒めさせられた。

 見れば金の髪の少女が、まだ机の前に立っている。

「昨日から、ルヴァ様がどこにもいらっしゃらないんです。侍従さんに聞いてもはっきり答えてもらえないし……クラヴィス様はご存知ですか」

 闇の守護聖は、眉をしかめた。では、ルヴァはまだ姿を現していないのか。これでもし、ディアに何の連絡も入っていなければ、さすがに何かあったとしか考えられないが、さしあたって女王候補には、どう答えればいいものか。

「……知らぬな」

クラヴィスはただ一つ、偽りなく返せる言葉を口にした。

「そうですか……ありがとうございました」

食い下がる事もなくアンジェリークは礼を言ったが、まっすぐにこちらを見据えると、再度唇を開いた。

「もし何かわかったら、どうかそのまま、私たちに教えてください。どんな事でも、ちゃんと受け止めますから」

闇の守護聖は、驚いて少女を見た。あどけなさの残る容姿の奥に、計り知れない力強さが垣間見えたような気がした。

 だがアンジェリークはすぐ、見慣れた慌しい調子に戻り、ぺこっと頭を下げると、駆け足で執務室を出て行った。

(やれやれ……)

急に疲れを覚えて、クラヴィスは背もたれに半身を預けると、大きく息をついた。

 既に、女王の力が発現しかけているのか。

 宇宙を導く力。全ての生命を終焉から救う力──その終焉がもたらしたであろう、サクリアの膨張。

 同僚たちの裡で暴走し、感情や価値観を歪め、ついに地の守護聖の理性までをも侵し始めたのだろうか。そこまで増長したものに、立ち向かう術などあるのだろうか……



 机上の連絡灯が点り、闇の守護聖は物思いから醒めた。ボタンを押すと、落ち着いた女性の声が流れてくる。

『クラヴィス、補佐官室まで来てください。ルヴァについて、聞きたい事があります』




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