闇の章・4−33
33.
淡い撫子色の部屋を、午後の陽射しが柔らかく満たしている。訪れたクラヴィスに、補佐官はいつもの優美な微笑で切り出した。
「さっそくですがクラヴィス、ルヴァの居所に心当たりはありませんか」
その問いは、闇の守護聖の胸に重く響いた。いよいよ、ルヴァの身に異変が起きたと認めざるを得なくなったのだ。まだサクリア暴走と断定はできないが、その可能性が最も高いだろう。
「あれからずっと、行方が知れぬのか」
「ええ」
答えた声の暗さに、思わずディアを見つめると、補佐官本人も戸惑った表情をしていた。日頃隠していた疲れや心配が、うっかり現れてしまったのに気づき、自分で驚いているようだった。
無理もないと思いながら、闇の守護聖はそれには触れず、静かに頭を振った。
「心当たりはないが……他の者は、何か言っていなかったのか」
「執務室や私邸の侍従たちは、何も知りませんでした。研究院で調べたところ、聖地の門から出た形跡はないとの事だったので、今は守護聖の皆さんに順に尋ねているところです」
早くも普段の表情と声を取り戻した補佐官は、穏やかな口調で続けた。
「先ほど、リュミエールにも聞いたのですが……一昨日の夜、あなたと共にルヴァに会ったと言っていました。夢の執務室で」
ディアはそこで、躊躇うように口を閉ざした。あの夜の出来事をどこまで知っているか、計りかねているのだろう。
クラヴィスは、承知しているというように頷いてみせた。
「オリヴィエの件なら、リュミエールから聞いている」
答えた瞬間、闇の守護聖の脳裏に、一つの人影が蘇った。あの夜、水の執務室での抱擁から顔を上げた瞬間、視界を掠めて消えた影。
もしかしたらあれは、ディアだったかもしれない。
部屋に戻ってきた時、リュミエールは一目見てわかるほど衝撃を受けていた。補佐官はオリヴィエに付き添っていたはずだが、鎮静剤で落ち着いた後だったなら、短時間だけ医官に任せる事もできただろう。心配して執務室に来たところでこちらに気づき、身を翻して出て行ったのではないだろうか。
クラヴィスは、一瞬焦りを感じたが、すぐに思い直した。見られたところで、どうという事もない。自分の裡に渦巻いていた想いまでは、気づかれるはずもないのだから。リュミエールは助けを求めていたに過ぎず、ディアもそれを知っていたからこそ、介抱する者がいる事に安心して、看病に戻っていったのだろう。わざわざ扉まで閉めていったのは、丁寧としか言いようがないが。
「ルヴァは以前オリヴィエの教育係でしたから、私が医療院から連絡を入れたのですが──」
補佐官が話しだしたので、クラヴィスは物思いから意識を引き戻した。
「──すぐ駆けつけたものの、今は面会できない、さしあたって危険な事はないと聞かされて、そのまま立ち去ったのです。帰宅したとばかり思っていたのに、なぜ誰もいない夢の執務室に行ったのでしょう。あなたが見た時は、どのような様子でしたか」
(様子、か……)
明らかに尋常ではなかったが、どう表現すればいいかわからない。悩んでいると、ディアが助けるように言葉を続けた。
「リュミエールは何か、熱に浮かされている人のような印象を受けたそうです。感情的で、それでいて上の空のような」
「そうか……その通りだ」
闇の守護聖は、水の守護聖の的確な言葉に感心しながら同意した。
確かに、熱に浮かされたような様子だった。あれが、ルヴァのサクリア暴走──またはその前段階である、サクリアに囚われた姿──だったのだろうか。緑や鋼の守護聖の時は、もっと刺々しく攻撃的だったような気がするが、元々の性格か、あるいは司るものが違うからだろうか。
だとしたら、地の力はルヴァをどう変え、どのような行動に駆り立てるのだろう。衝動などからは一番遠く感じられる力だけに、なかなか想像がつかない。
考えあぐねて黙っていると、ディアは細く息をついた。
「ありがとう、クラヴィス。何か思い出した事や思いついた事でもあれば、いつでも私に連絡してください。これまで調べたところでは、最後にルヴァを見かけたのは、あなた方だったようですから」
務めて平気そうに言っているが、声が再び暗くなりかけている。常態を装う事さえ、もはや困難なのだろうか。
「……わかった」
事態の深刻さを改めて思い知りながら、クラヴィスは補佐官室を後にした。
その夕刻、闇の守護聖は、いつものようにリュミエールの補佐を受けながら、書類の処理をしていた。
溜息が聞こえたので声を掛けると、責められるとでも思ったのか、水の守護聖は可哀想なほどの動揺を見せた。クラヴィスは後悔したが、青年はすぐ気を取り直し、地の守護聖あての書類を見たためだと答えた。無理もない、ルヴァは自分にとって信頼できる同輩であるだけでなく、年中以下の者たちにとっては、優しく親切な先輩でもあるのだ。
リュミエールのためにも早く見つかってほしいと思いながら、闇の守護聖は相手の気分を晴らすように、女王候補にルヴァの行方を尋ねられた事を話してやった。
「それは……お疲れ様でした」
かえってこちらを労わるように言う、その眼差しの優しさに溺れないよう、クラヴィスは静かに視線を外した。
「その後はディアに呼ばれ、知っている事を尋ねられた。どうやら、我々が最後の目撃者だったようだな」
「そうでしたか。きっと、守護聖全員にお聞きになっていらっしゃるのでしょうね。もっとも、休んでいるオリヴィエには、まだお尋ねになっていないかもしれませんが」
「オリヴィエ?」
付け加えられた言葉に、クラヴィスは夢の守護聖が執務を休んでいる事を思い出した。そういえば、あの者のサクリア暴走のきっかけは、何だったのだろう。
そして直後、夢の執務室を最後に消息を絶ったルヴァ。単なる偶然なのか、それとも、二つの事件には関係があるのだろうか。
思い返すたびに、地の守護聖の“熱に浮かされたような”様子が、気にかかってくる。まるで崇高な使命でも見出したような、どこか恍惚とした眼差しをしていた。あの時既に、地の力が暴走を始めていたのだろうか。だとしたら、磐石の理性を狂わせるような何かが、あの場にあったのだろうか。
「……ルヴァはなぜ、あの者の部屋に行ったのだ」
独り言のように呟くと、リュミエールが穏やかに答えてくれた。
「それでしたら、やはりディア様がご連絡を入れられたそうです。ルヴァ様が彼の教育係だったので、念のためというおつもりだったのでしょう」
「その事は私も聞いた。だが、そうだとしても──」
そこまで言いかけて、クラヴィスは自分がルヴァの心の動きを探ろうとしているのに気づき、諦めたように大きく息をついた。
地の守護聖を探し出したいのは山々だが、この方面から考えるのは、少なくとも自分には無理だ。そもそも人の心を量るなど、最も苦手とするところなのだから。しかもあの地の守護聖が、我を忘れるほど執着する対象など、いくら考えてもわかるはずがない。
闇の守護聖は疲れた頭を振り、手元の書類に視線を戻した。
結局のところ、当面は聖地と飛空都市を、地道に捜索するしかないのだろう。それは既に、補佐官が始めているはずだ。きっと大事にならないよう、細心の注意をもって調べている事だろう。
そして自分は、現在できる最善の事として、少しでも早く今日の執務を終わらせなければならない。リュミエールを、少しでも長く休息させるために。
そこまで考えた時、クラヴィスはまるで応じるかのように、水の守護聖が呼びかけてきたような気がした。それも耳ではなく心を通して、想いを告げるように。
(……馬鹿な。あるはずがない)
闇の守護聖は妄念を振り払い、再び執務に集中し始めた。