闇の章・4−35




35.



 五人が去った執務室で、クラヴィスは神経を集中させ、地のサクリアを探った。大きな変動が感じられないところをみると、さしあたって今の時点で最悪の事態は起きていないようだが、それ以上の事はわからない。

 気をもみながら待つには長すぎる時間が過ぎ、ようやく夕方近くになってから、リュミエールが戻ってきた。

 疲れてはいるが柔らかさを取り戻した表情で、青年が報告したところによると、ルヴァは図書館の特別資料室で見つかったようだ(あの隔離された場所ならば、ディアに聞かれた職員がとっさに思いつかなかったのも、無理のない事かもしれない)。地の守護聖はそこで幾日も、不眠不休で何かを調べ続けていたらしく、五人が駆けつけた時には意識を失っていたという。ただ、医療院に搬送して治療を受けた結果、何とか命の危険は脱したとの事だった。

「そうか……間に合ったのだな」

安堵を噛みしめるように、闇の守護聖は呟いた。

 守護聖としての永い年月を通して、これほど仲間の危機を身近に感じた経験はなかった。とはいえ、風の守護聖や、もしかしたら夢の守護聖にも──自分が事件を知ったのが、すべてが終わってからだったというだけで──場合によっては、命の危険がありえたのかもしれない。

 前の女王交代の時には、このような事は起きなかった。やはり、宇宙の終焉が自分たちの裡に作用した結果なのだろう。

 不意にリュミエールが心配になり、視線を上げたクラヴィスは、相手が物思わしげに考え込んでいるのに気づいた。どうしたのかと尋ねると、青年は驚きながらも思い切ったように、こう言った。

「身を削り、命を懸けてまでして、ルヴァさまは何をお調べになっていたのだろうと、そう考えておりました。私になどわからない、難しい問題についてかもしれませんが」

 クラヴィスは、しばらく返事ができなかった。大方の予想はついている。恐らく地の守護聖は、オリヴィエの錯乱を知って禁を破り、目前に迫った宇宙の終焉について、再び調べ始めたのだろう。しかし、事が終焉に関るだけに、独断でそれを口にするわけにはいかないのだ。

「いずれ、明かされる時が来よう……遠からず、な」

苦しまぎれの答に対して、思いがけない反応が返ってきた。

「では、クラヴィス様はご存知なのですか」

責める響きはなく、反射的に出てしまったような言葉だったが、闇の守護聖はただ沈黙するしかなかった。

「……申し訳ありません」

水の守護聖が謝ってきたのを聞いて、クラヴィスは心中で頭を振った。お前が謝る必要など、どこにもない。このような事件が起きた以上、何を調べていたのか知りたくもなろうし、あのような答え方をされては、問い返したくなるのも当然だ。

 だが、それを口に出せないまま、闇の守護聖はただ青年を見つめた。繊細な面が悲しげに曇り、海色の瞳が次第に伏せられていく。自責か、それとも心配か、あるいは漠然と不安を感じているのか。

 いたたまれない思いにかられて、クラヴィスは声をかけた。

「リュミエール、竪琴を……聞かせてくれ」



 自室から楽器を携えてきた水の守護聖は、だいぶ落ち着きを取り戻しているようだった。

 いつもの椅子に掛けて奏で始めると、その繊細な面はさらに、音色を司りながら味わっているような、緊張と充足の美しく溶け合った表情へと変わっていく。竪琴の演奏がリュミエール自身をも癒すのは以前から感じていたが、これほど鮮やかに効果が出るとは思わなかった。

 弾く者と聴く者の双方に安らぎを与える、その妙なる調べに耳を傾けながら、クラヴィスは静かに双眸を閉じた。



 演奏が終わってすぐ執務に戻ったものの、ただでさえ執務の量が増えていたところに、ルヴァの件で昼間は全く集中できなかったため、その日は聖殿を出るのがかなり遅くなってしまった。

 先に自らの分を済ませて駆けつけた水の守護聖──夕方まで仕事ができなかったのは同じはずだが、元の量が違うために早く済んだらしい──の補佐を受け、さらに翌日に延ばせる書類は後回しにして、ようやくクラヴィスが最後の一通を仕上げた時には、既に夜更けと言える時刻になっていた。

 さすがに疲れた様子のリュミエールと連れ立って車寄せに向かい、別れの挨拶を受けてから、闇の守護聖は帰途に就いた。

 暗色の馬車が夜の森にさしかかったのが、木々の香りと柔らかな震動から感じられる。クラヴィスは心が寛いでいくのを覚えながら、夕刻の演奏を思い起こしていた。

 あの時、リュミエールが奏でていたのは、確か、故郷から持ってきたと言っていた簡素な竪琴だった。奏者自身を癒す力が強かったのは、そのためだったのかもしれない。手に馴染んでいるだけでなく、共に過ごしてきた年月や故郷での記憶が、音に一層の力を与えるのだろう。

 故郷を離れる時に持っていた、守護聖になる前の自分を知っている、数少ないものだからこそ──



 鈍く重い圧が、突然、胸を襲った。

 大気が、耳を聾して叫び出す。血肉が引き絞られ、激痛と共に動きが封じられる。



(なぜ、今……)



<忘れるな、お前が与えた傷を>

<取り返しのつかぬ科、永きに渡る黙殺、幾重に重なった悪事を。>



押さえつけていたはずの痛みが、以前より激しく蘇る。



<──傷つけた。>

<傷つけ、罪を別事にすり替え、さらに傷つけた。>



 光り輝く髪の下から、少年と少女の激しい眼差しが、時を越えて追いかけてくる。灰色の靄を背に負い、真っ直ぐに突き刺してくる。



<地に伏して謝れば、僅かでも安らぎが訪れるかも知れぬ──>

<そのような事、お前には許されない。>



(わかっている……が、今は……ならぬ……!)

片手で胸を押さえながら、闇の守護聖は必死でもう一方の腕を伸ばした。



 ようやく届いた呼紐の合図によって馬車が停止し、御者席から声が掛かる。

「クラヴィス様、ご用でしょうか」

時間を掛けて身を起こすと、クラヴィスは答えもせずに扉を開け、崩れ落ちるように車外に出た。

 席から飛び降りてきた御者が、何事か叫んで支えようとする。

「……構うな」

懸命に振りほどいた闇の守護聖は、何かの気を感じて動きを止めた。

温もりはないが乾いてもおらず、静かだが生気に似た、包み込むように柔らかな存在。吸い寄せられるように脇道に入り、よろめく足で木々の間を進んでいくと、どこからか低い響きが伝わってきた。よく知っている音。あの柔らかな気とともに、幾度となく感じてきたもの。

 気づけば輝く新宇宙の星々の下、誰もいない草地の奥に、微かに光りながら落ち続ける滝があった。

「そう……か」

休みなく落下する流れに指先で触れると、清冽さが皮膚から全身へ、そして心にまで染み渡っていくのが感じられる。

 そうだ、聖地の水だ。幾度となく痛みを逃がし、苦しみを耐える力を与えてくれた、あの聖地の水が運ばれて、ここを流れているのだった。必要とされる間だけでも耐え抜きたいという、身の程知らずながら切なる願いをも支えるように、痛みを癒し、意識を保つ力を養ってくれる水。

 闇の守護聖は、深く息をついた。

 きっと、これで大丈夫だ。あとしばらくは、永らえてみせる。遠からず到来する運命の、その日までは。




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