闇の章・4−36




36.

 翌朝、クラヴィスが執務室に着くと、補佐官からの知らせが届いていた。

 ルヴァが調べ物に没頭して健康を害し、検査と休養のため医療院に入ったが、執務をこなせる程度の不調なので心配しないように。また、退院の報せが出るまで、彼宛の書類は医療院に届けさせる事──という内容で、全守護聖および女王候補に同じものが発行されたようだった。健康を害した理由まで記す必要はないようにも思われるが、余計な不安を引き起こさないための、ディアなりの気配りなのだろう。

 医療院にいる間くらい、執務から解放してやれないものかと思いながら、闇の守護聖は机上の書類に眼を向けた。先週より、目に見えて多くなっている。なるほど、下手に休ませてしまっては、復帰後の負担が大きくなりすぎるというというわけか。

 薄く苦笑すると、クラヴィスは書類の一束を手に取った。そろそろ、自分も執務を始めたほうがいいだろう。さもなければ、また遅くまで居残る事になってしまう。



 だがしばらくすると、頭の芯がずきずきと痛み出した。連夜ほとんど眠れていないのだから仕方ないとはいえ、耐えようとすればするほど集中が削がれていくのがわかる。ともすれば、呵責を呼び起こす事柄に思いを馳せそうになってしまう。

 ついにクラヴィスは──ちょうど緑の守護聖に届ける書類が完成したところでもあったので──思い切って部屋を出る事にした。

 自らを支えるように腕を突き、ゆっくりと身を起こし、少しずつ試すように立ち上がる。そうしながら、闇の守護聖は奇妙な感慨を覚えた。以前であれば、このような判断も行動も、とても取り得なかっただろう。せいぜい怯えすくみ、時が過ぎるのを待つしかできなかったはずだ。それが今は進んで危険を察知し、対策をとっている。自分にとって苦痛に抗おうとするのは罪であり、いずれ一層の痛みを引き起こすだけだとわかっていながら。

(変わった……ものだな)

たとえ一時的であろうと、宇宙を救う役割だけのためだろうと、今は長らえたいと思っている。諦めもせず、逃げようともせず、真正面から事実と向かい合っている。

 不思議に思いながら扉を開けると、長く伸びた廊下の先に、自然と視線が向けられた。

(そう……か)

何事からも逃げず諦めない者が、あの水色の部屋にいる。初々しい少年の頃から、懐深い青年になっても変わらず、弱さと見まごうほどの繊細さを持ちながら、懸命に真っ直ぐに生き続けている者が。永きに渡って近くにいれば、自分のような者でさえも、影響を受けるものなのだろうか。

 感謝しなければならない事が、また一つ増えたと思いながら、闇の守護聖は手前の階段を下りていった。

 

 飛空都市の緑が壁一面の窓を明るく満たし、陽光とともに部屋に射しこんでくる。目眩がするほど健やかな気に満ちた執務室に入ると、大机の手前に先客の姿があった。

「じゃ、そろそろ戻るか」

白銀の髪の少年は、ちらりとこちらに眼を向けてから、再び部屋の主に声を掛けた。

「ま、あんまり心配すんじゃねーぜ、ああいうやつに限って、案外と持ちが良かったりするんだからさ……じゃな、クラヴィス」

「うん、ありがとう。ゼフェル」

緑の守護聖の素直な返事を聞きながら、クラヴィスが軽く頷くと、鋼の守護聖は入れ替わるように退出していった。

 ルヴァの話をしていたのだろうか。少年たちの間に、最早かつての刺々しさは感じられず、ただ温かな親愛だけが伝わってきた。そういえば、地の守護聖を探していた時から既に、彼らは協力し合っていたようだ。どうやらこの二人は、ランディの事件を経て正気を取り戻す事ができたらしい。サクリアに支配されかけた自覚があるかはわからないが、あの反目が自らの本心ではないと気づいたのだろう。

 少年たちの回復力に安堵と感心を覚えながら、クラヴィスは携えてきた書類をマルセルに渡した。

「ありがとうございます。それから……あの、昨日もありがとうございました、ルヴァ様の居所を見つけてくださって」

緑の守護聖はその場に立ち上がると、大きな姿勢で礼をとった。

「感謝されるほどの事ではない。そもそも依頼を受けなければ、占うという考えも浮かばないところだった」

「じゃ、後でオリヴィエ様にもお礼を言っておきます。クラヴィス様にお願いするのを思いついたのは、あの方だったので──でもやっぱり、ありがとうございました!」

「……ああ」

嬉しそうに礼を繰り返す少年に、根負けしたように低く答え、闇の守護聖は部屋を出て行った。



 どうやら夢の守護聖は、ルヴァ捜索にずいぶん貢献したようだ。執務室に押しかけてきたうちの一人だっただけでなく、資料室の扉を──事情はわからないが銃撃で──開いたとも聞いている。その一方で、自覚がなかったとはいえ、失踪の原因を作った当人でもあったのだが。

(ルヴァと、オリヴィエ……か)

中央階段を上りながら、クラヴィスは考えた。

 つい数日前、夢のサクリアが暴走したのも、元を辿ればルヴァの言動に傷ついたためだったではなかったか。結局この二人は、そこまで互いを強く想っていたわけだ。挙句、ここまで心中が露見するような事件を起こしてしまったのだから、当人たちが何も気づかないはずがない。遠からず、彼らの想いは通じ合う事だろう。

 愛する者が側にいて、相手も同じ気持ちを寄せてくれる。誰にとっても望ましい状態には違いなかろうが、守護聖という重く長い時間にあっては、どれほど大きな喜びとなり、救いとなる事だろう。

 詮無いとわかっていても、比べずにいられない。もしそれが、自分に起こるとしたら。リュミエールが想いを向けてくれるような事があったとしたら──



(……しまった!)

胸の奥で、深淵が開き始める感触がした。望みを抱くという禁に触れてしまったのだ。暗黒の渦が回り出す。呵責が刃の雨のように降りかかってくる気配がする。

 だが次の瞬間、半身の衝撃と共に、クラヴィスの意識は現に引き戻された。

 何が起きたかわからないまま見回すと、ちょうど階段から上がった辺り、二階廊下の壁にもたれているのがわかった。眼の前には、炎の守護聖が立っている。躯に残る痛みからして、どうやら自分は無意識に歩き続けて彼に突き当たり、弾みで壁に躯を打ちつけたらしい。幸い、まだ渦に呑まれきっていなかったため、この程度の刺激で意識が戻ったのだろう。

 しかし、オスカーはなぜ無反応なのだろうか。相手に眼も向けず、声もかけず、横顔を見せたままどこかを凝視しているなど、およそこの者らしくない。

 相手の視線を辿った闇の守護聖は、急いで眼を逸らさなければならなかった。

(光の……執務室……)

辛くも逃れたばかりの痛みに、再び踏み込んでしまわないよう、意識を炎の守護聖にのみ集中する。

 こうして人に当たられても気づく様子もなく、いったいどれほどの時間、この姿勢でいるのだろうか。滅多に見せないような暗く激しい表情といい、平常心を失っているのだろうか。まさか、またサクリアが──

 クラヴィスはしばし考えてから、小さく頭を振った。少なくともこの様子からは、炎の力に繋がるものを感じない。緊急性がないならば、今は詮索している暇などないはずだ。知るべき事であるのなら、いずれ知れる時がくるだろう。

 彫像のように立ち尽くす青年の横を通り過ぎ、闇の守護聖は自室に戻っていった。




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