闇の章・4−39
39.
それから程なく、クラヴィスとリュミエールは星の間を退出し、次元回廊へと向かった。
ディアの様子が心配ではあったが、当人から大丈夫なので戻るようにと言われ、更に、新宇宙で闇と水のサクリアが依頼される見込みだとまで告げられては、二人とも従うしかなかった。今や女王試験は、現女王と補佐官の苦難を終わらせられる、唯一の手段ともなったのだから。
飛空都市に戻るべく回廊に入ると、クラヴィスは往路に覚えたあの抵抗感が、より強くなっているのに気づいた。
そもそもこの通路は、宇宙の狭間にある混沌の層を、女王の力で無理に調整しているだけの物だ。その女王と補佐官が揃って弱ってしまったのだから、元の──人も物も入る事を許されない──状態に戻りかけても、少しも不思議はない。とはいえ、このままではいずれ、宇宙間移動に差し障りが出るようになるだろう。何としてもその前に、試験が終わってくれねばならないのだ。
考えながら傍らを見ると、リュミエールがその青い眼を不安げに見開いていた。どうやら、初めてこの感覚に気づき、正体がわからずに動揺しているようだ。
回廊内では移動に集中する必要があるため、クラヴィスは新宇宙側の出口に着てから、抵抗感についての推測を話してやった。理由がわかって青年は安堵したようだったが、その表情が晴れる事はなかった。
無理もない、と闇の守護聖は思った。宇宙の終焉を知らされた衝撃も癒えていないところに、このような話を聞かされてしまったのだ。女王とディアの身が、余計に案じられてしまうというものだろう。
心配の種だけ与えて、ろくに宥める事もできない自分に、クラヴィスは幾度目かしれない怒りを覚えていた。
回廊室から戸外に出ると、一台の馬車が待っていた。御者によると、集いから戻った守護聖たちが乗り合わせて聖殿に戻れるようにと、研究院の者が手配していたという。
二人が乗り込むのを待って、馬車は走り出した。覆いをかけていない窓からは、美しい緑の木々が、健やかな鳥の声が、眼に耳に飛び込んでくる。生まれたばかりのこの宇宙の生気を感じさせ、後にしてきた宇宙の沈んだ気を思い出させてしまう。
景色から視線を外した闇の守護聖は、正面の席でリュミエールが、何か言いかけては躊躇っているのに気づいた。話したい内容は、おおよそ見当がついたが、彼はただ無言で待っていた。
やがて、水の守護聖は、思い切ったように口を開いた。
「クラヴィス様は、ご存知だったのですか。私たちの生まれた宇宙が……終わりかけているのを」
闇の守護聖は無言のまま、頷きをもって答えた。青銀の髪の青年が、溜息をつく。あれほど知りたがっているとわかっていながら教えなかったのだ、どのような恨み言をぶつけられても、あるいは、詰る価値もないと呆れられても、甘んじて受けるしかないだろう。
だが、聞こえてきたのは、思いがけない悲しみの籠もった声だった。
「なぜ、打ち明けて下さらなかったのです。クラヴィス様が、私などより遥かに強靭でいらっしゃるのはわかっておりますが、それでも、お一人で胸にしまっておくには、あまりに大きく辛い事ではありませんか。痛みもお分けいただけないほど、私は頼りないのでしょうか」
予想もしていなかった言葉に、クラヴィスは息が止まりそうだった。怒るのでもなく、責めようともせず、ただこの自分を思いやっているのか。しかも秘密の重さを、痛みを分かち合いたかったというのか。自分のようなものに、そこまで寄り添おうとは、いったい──
(一体、お前の優しさというのは……どこまで広く、大きいのだ)
胸にこみ上げる感情を、どう表したらいいかわからないまま、クラヴィスは短く呟いた。
「……許せ」
その優しさゆえに、この自分のために、リュミエールは悲しみ、傷ついてしまったのだ。何という、不当な仕打ちをしてしまったのだろう。傷つけまいと願えば願うほど、どうしていつも、惨く深く傷つけるしかできないのだろうか。このような言葉では、到底償えるはずもないが、他にどう言えばいいのか、どうすればいいのかわからない。
苦悶しながら青年を見つめると、その唇が、意外すぎる言葉を紡ぐのが聞こえてきた。
「私こそ、何という事を……申し訳ありません……」
何を謝っているのだろうか。尋ねた事を、不躾とでも思ったのだろうか。クラヴィスは頭を振って否定したが、水の守護聖はなおも続けようとした。
「しかし……」
その時、軽い震動と共に馬車が聖殿に着いた。
心乱れたまま、クラヴィスは習慣に操られるように玄関ホールに入り、正面階段を上り始めた。いつものように少し遅れて続きながら、リュミエールが遠慮がちに呼びかけてくる。
「あの、クラヴィス様」
謝罪の言葉が続く気配に、闇の守護聖は溜息をつきそうになった。何かはわからないが、それほど謝りたいのなら、ひとまず受け入れてやった方がいいのだろうか。
「……まだ、気が済まぬと──」
答えかけた時、前方を横切る二階廊下から、異様な音が響いてきた。
先刻、星の間で顔を合わせたばかりの炎の守護聖が、別人のように殺気立ち、乱暴な足取りで歩いていく。二人は思わず階段の途中で足を止め、立ち尽くしたが、その姿が視界から消えると、我に返って残りの段を上った。
執務室に入ったのか、オスカーの進んでいった方角にはもう誰もいなかったが、反対側に眼を向けると、光の執務室の前に数人の侍従がいるのが見えた。どうやら炎の守護聖は、この部屋から出てきたようだ。
そういえば先刻、ディアがオスカーの謹慎を解くと言っていた。連絡を受けて、さっそくジュリアスに補佐を願い出たが聞き入れられず、侍従たちに追い出されたといったところだろうか。
しかし、いくら規律に厳しいとはいえ、こうも頑なに補佐を断らなければならないものだろうか。最近の仕事量を考えると、いくら頑張ったところで、守護聖の補佐を受けずに一日分を処理するのは無理というものだ。職務を重んじるのならば、むしろ罰を後回しにし、オスカーを呼ぶべきではないのだろうか。
そこまで考えて、闇の守護聖はある可能性に思い当たった。もし誇りというものが、歪んだ方向に強められてしまったら、人はこのようになるのかもしれない。あるべき形に拘り、冷静さを失い、本末転倒といえる判断を下すように。
「やはり……サクリアに蝕まれているようだな」
思わず、低い声が漏れた。
「ジュリアス様の事でしょうか。では、ディア様にあのような態度を取られたのも……」
驚いたように聞いてくる水の守護聖に、クラヴィスは考えをまとめながら答えた。
「そこまで心身が弱り、余裕を失っているという事だ。普段から助けを求めたがらぬ向きはあるが、無謀なまでに補佐を拒み続けるのは、過剰なサクリアが判断を誤らせているためだろう。誇りというのも、案外、面倒なもののようだ。あれが無理をするのは、昔からだが……」
昔。
無理をして倒れた、金の髪の少年。
この自分のせいで、無理をしたのだ。だから、そうならないために──書類を焼いた。
薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いていた。
激しい眼差しが、時空を越えて追いかけてくる。
犯した罪と、逃れた罪との大きさが、時の重さをまとって、今にもつかみかかろうとしている。
永遠の痛みの牢獄が、自分の服役を待っている。
(だが……まだだ……)
最後の一歩で踏みとどまるように、クラヴィスは自分の心に呼びかけた。
(……まだだ!)
今は従えない。罰が何倍になっても構わないが、今は服せない。為すべき事がある。救わなければならない者がいるのだ。
「クラヴィス様……」
胸と頭が張り裂けそうな恐怖と激痛の中、細く儚い、だが、決して揺らがぬ意志を秘めた声が、耳に届いた。
お前のために、そうだ、お前の気持ちが治まるよう、晴れるようにと願っていたのに……
その声だけを頼りに、クラヴィスは意識を引き戻そうともがいた。霞む視界の中、懸命な表情のリュミエールが見えてくる。どうした、そのような眼で、何を悲しんでいるのだ。
記憶が朧気に戻ってくる。青銀の髪の青年は、その必要もない事を気に病んで、繰り返し謝ってきていたのだった。幾ら謝っても気がすまない、謝り足らないかのように。
(それ……ならば……)
頭に浮かぶのは、ただ一つの事だけだった。謝罪の代わりに、竪琴を奏でるよう頼むのだ。リュミエールの心を宥める術を、自分は他に知らない。
掠れる声で演奏を所望すると、水の守護聖は二つ返事で快諾した。
青年に支えられながら、執務室に戻ったクラヴィスは、力尽きそうな躯をカウチに預けた。闇と静寂に包まれていると、僅かずつだが心身が回復していくのがわかった。
程なく、リュミエールが自室から竪琴を持って戻ってきた。集中するためか、珍しく数回大きな呼吸をしてから、静かに奏で始める。これまで以上に深い情感がこもっているように聞こえる、その美しい音色は、闇の守護聖の心にどこまでも深く染み渡っていった。