闇の章・4−40




40.

 夜、飛空都市の私邸に戻った闇の守護聖は、夕餉を取る力もなく、寝台に体を投げ出した。

 痛みの淵から戻る事ができたのは良かったが、それでもう、今日の気力を殆ど使ってしまったようだ。あれからリュミエールに演奏してもらい、ようやく少しだけ躯を動かせるようになったものの、直後に女王候補たちが相次いで育成を依頼してきたため──どうやら、ディアの予言は成就したようだ──やむなく、書類仕事を一部残して帰らなければならなかった。執務が滞るのは本意ではないが、育成に支障が出てはならないと、大事を取ったのだ。

 実際、際どいところだったのだろう。研究院で放出をすませた時にはもう、意識を保つのも難しい状態だった。どのように私邸に帰りついたかさえ、定かではないほどに。

(ともあれ……)

こうして、何とか自分の寝室に戻ってこられたのだから、あとは休めばいいだけだ。

 クラヴィスは大きく息を吐くと、静かに双眸を閉ざした。



 しかしなぜか、こういう時に限って眼が冴えてしまう。暗い考えばかりが頭に広がり、眠りが訪れる気配もないまま時間が過ぎていく。

 やむなく瞼を上げると、夜間はカーテンを開けてある窓から、新宇宙の夜空が見えた。美しい月明かりの中、大きな二つの雲が、間に小さな雲を挟むように浮かんでいる。

(フェリシアと……エリューシオン……)

放出時に確認した二大陸の様子を、闇の守護聖は思い出していた。

 両大陸とも活気に満ち、民は今にも中央の島に進出しそうな意欲と技術を備えていた。実際に居住域を広げるためには、満たすべき条件がいくつかあるのだが、それもあと一回か二回、力を送られれば叶うはずだ。

 闇の守護聖は、ようやく自分の眼で未来を確かめられたような気がした。女王候補たちが正しい選択をすれば、あと二日ほどで救済が始まるはずだ。その程度の時間ならば、何とかこの身を生かし続けられるだろう。

 そこまで考えた時、クラヴィスの胸を疑念が過ぎった。この安堵、この明るい感覚は何だ。もしかしたら自分は、希望というものを抱きかけているのではないか。救済が終われば消え失せる、一時的なものだとしても、禁じられた喜びに手を伸ばしてしまったのではないのか。

 つい半日ほど前の恐怖が蘇り、闇の守護聖は息を詰まらせた。罪を重ねた以上、いつまたあの深淵が開いてしまうかもしれない。昼間はたまたま戻ってこられたが、もう抗う気力など残っていない。

 今、あそこに囚われたら、どうなってしまうのだろう。通常の放出ならばともかく、厳密さを要求される試験の、それも最終段階に入っているのだ。量の調整を間違いでもしたら、誤った試験結果が出てしまうかもしれない。

 それに、もし正しい育成ができて、無事に新女王が決定したとしても、意識を閉ざされたままでは、救済を見守る事ができないだろう。何か障りがあった場合、助けられる可能性があるのは、終焉を知らされた僅かな者たちだけだ。その一人が欠けた事で、救済が成就できなかったら。

 宇宙が、宇宙中の生命が、助からなくなったとしたら……



 クラヴィスは恐慌にかられ、身を起こそうとしたが、躯が動かなかった。

 せめて少しでも抵抗しようと、懸命に頭を振ると、小さい輝きが眼に入った。遠い町の灯火のように、決して強くはないが、揺るがず点り続けている明かり。

 吸い寄せられるように眺めるうちに、クラヴィスは少しずつ気持ちが静まっていくのを感じた。

(お前……か……)

自分の一部と言えるほど永く共に過ごしてきた、冷たい水晶の珠。習慣的に持ち帰り、寝台の傍らの卓に置いたのだろう。

 不意に光りだすのは幾度となく見てきたが、これほど仄かながら力強く、厳しく、そして優しい輝きは初めてだった。こちらが見ているのに、なぜか見守られているような、あるいは見張られているような、奇妙な感覚が沸き起こってくる。

 不思議に思いながら注視してると、輝きは突然、消えた。まるで、今は探ってはならないと告げるかのように。

 闇を映す透明な珠に戻ったそれを、クラヴィスはしばらく見つめていたが、やがて両眼を閉ざすと深い息をついた。

 とにかくあと二日、心身を永らえさせる事だ。救済が無事終わった後は、何であろうと受け入れればいいのだから。

 窓外に広がる雲の大陸を眺めながら、クラヴィスはようやく眠りに入っていった。



 翌朝、闇の執務室を、青い髪の女王候補が訪れた。

「フェリシアに、闇の力をたくさんお願いしますわ」

「たくさんだな……わかった」

返事を聞いた少女は、いつものように軽く膝を曲げて礼を取った。  

 だが、今日はそのまま退出しようとせず、じっとこちらを見つめている。

「……どうした」

依頼の訂正でもあるのかと思い、尋ねてみたが、ロザリアは静かに頭を振った。

「何でもありませんわ。ただ……もうすぐ、こうして女王候補としてお会いする事もなくなるのかと、そう思いましたら──」

そこまで言うと、少女は珍しく上ずった声で、衝動にかられたように言い出した。

「クラヴィス様、私……私の事を、お話しいただけませんか」

闇の守護聖は、僅かに眼を見開いた。この少女が、これほど感情を昂ぶらせるのは珍しい事だ。幼い頃から、女王になるべく資質と自覚を育んできたような者でも、さすがに運命の時を目前にすると、心が揺れるものなのだろうか。

「お前の事を……話すのか?」

聞き返すと、少女は我に返ったように口を押さえ、一つ息をついて頭を振った。

「……いいえ、すみません。今日はこれから、別の力の依頼に行くのでしたわ」

「そうか」

女王候補が普段の様子にもどったので、クラヴィスは安堵しながら答えた。何と言ってもまだ年若い少女だ、運命の大きさに不安を覚えるのも、当然といえるかもしれない。

 しかし、この者たちはまだ知らないのだ。自らに課せられるのが、単なる女王位の継承だけではなく、宇宙の危機にかかわる使命だという事を。

考え込みながら見つめると、ロザリアは仄かに頬を赤らめながら、退出の挨拶をしようとした。

「それでは……」

 その時、扉の叩かれる音が聞こえてきた。入室の許可を口にすると、戸口からリュミエールが姿を現した。息でも切らしているのか、白い手の片方は胸に当てられ、優しい眼差しはいくらか伏せ気味になっている。

 青い髪の女王候補は、二人の守護聖にそつのない挨拶をすると、入れ替わるように退出していった。

 だがなぜか、水の守護聖は、閉じられた扉の方を向いたまま立ち尽くしている。どうしたのかと声をかけても、曖昧な返事をするばかりで、なかなか近づいてこようとしない。

 訝しく思い、再度声をかけようとしたところに、また扉を叩く音が響いた。

「開いてい……」

応答の途中で入ってきたのは、夢の守護聖だった。




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