闇の章・4−4


4.

 クラヴィスが再び水の守護聖の訪問を受け入れるようになって、数週間が過ぎた。

 今はすっかり以前の状態に戻った──というより、以前よりも長い時間を、リュミエールは闇の執務室で過ごすようになっている。執務の補佐に加え、“過去十週間分の全宇宙観測記録から、研究院が報告の必要を認めなかったほどの些細な異常を探し出す”という、気の遠くなるような作業の手伝いをするようになったからだ。

 自分ひとりでは無理だと踏み、やむなく助けを請うたのだが、青年は依頼されるまま、目的を問う事もなく熱心に取り組んでくれている。



 リュミエールが手伝いにくるだけで、作業効率が上がるのはもちろん、心に潤いが戻ってくるのが、クラヴィスには感じられた。だが、それを凌駕する激しさで、罪の意識が胸を苛んでくるのも、同時に自覚しないでいられなかった。

 安らぎの裏の煩悶、平穏と背中合わせの痛み。相反するものがめまぐるしく移ろう状態は、ただ苦しみの中にある時にも増して、心を消耗させていくようだった。その日の作業の終わりを告げ、執務室で独りになると、急激に疲れが襲ってくる。立ち上がる力が出ず、夜半近くまでその場に留まる日も少なくなかった。

 そこまでしてこの状態を続けている自分が、闇の守護聖は不可解だった。心身の安泰を少しでも得たいなら、いつでも青年を追い出し、一人で闇に篭ってしまえばいい。なのに、そうしようと思わないのは、宇宙を見捨てられない、リュミエールを守りたいという思いが勝っているからなのか。

(私の思い……意志……)

そのようなものが自らの裡に在り、息づいていた事に、クラヴィスは深い感慨を覚えた。

 ならば、それに従っていこう。いつか疲労と苦痛に、この心が果てるまで。



 闇の守護聖の様子が少しずつ変化している事に、リュミエールは気づいているように見えた。だが、それが何を意味しているかまでは──当然ながら──分からないらしく、特に態度も変えないまま、執務や作業の補佐を続けていた。

 そしてある日、青年は一件の異常を報告してきた。

「クラヴィス様、ある辺境星域の新惑星において、大気や気候の成熟速度が、予測範囲から下方に、いくらか逸脱しているという記録があります。研究院基準では問題ないとされていますが、このようなものでもご報告したほうがよろしいでしょうか」

「……ああ」

ついに来たと思いながら、クラヴィスは低く呟いた。異変の正体が明らかになる日が、とうとう、こちらに向けて動き出したのだ。

 だが、その瞬間、心のどこかが竦むのが感じられた。

(今さら……?)

何を怖れる事があろうかと、闇の守護聖は自らを訝しんだ。宇宙に大きな異変が起ころうとしているのは、ずっと前からわかっていた事ではないか。それに対処するため、あえて罪を重ねる覚悟もしたはずだ。なのに、ようやく答えが出る兆しが見えた途端に、自らの心に生じたこの怯えは何なのだ。

 それとも──異変でもなく罪でもない、何か別のものを、自分は感知しているのだろうか。

 クラヴィスは眼を閉じて集中を試みたが、正体はわからなかった。ちょうど、鈍い痛みがその場所を特定しがたいように、確かに存在しているのに、突き止められない。新たな不安が心中に広がっていくのを感じながら、闇の守護聖にはどうする事もできなかった。



 数日に一つあるかどうかだったリュミエールの報告は、果たして日を追い週を追うごとに、少しずつ頻度を増していった。

(この……感じ……)

報告をまとめた綴りに目を通していたクラヴィスは、不意に奇妙な思いに捉われた。一見何の関連もなさそうな幾つもの事象が、ある時不意に、共通の要因によって引き起こされていたと判明する──そのような現象を、確かに自分は経験した事がある。原因が明らかになった途端、思いもしなかった共通点が、誰の目にも明らかなほどはっきりと見えてきて、畏怖に近い驚愕を覚えたものだった。

(あれは、何のおりだったろうか……)

闇の守護聖は記憶を探ったが、思い出す事ができなかった。そればかりか、集中しようとすればするほど、心が乱れてしまうようだ。意識が黒く波立ち、足元さえ見失いそうな混乱に襲われそうになる。

 深い息をつくと、クラヴィスは立ち上がった。このまま考え続けても、きっと良い結果は得られないだろう。直感的にそう判断した彼は、リュミエールに作業を続けるよう身振りで示し、静かに執務室を出て行った。



 どこに向かうともなく廊下を歩いていると、知らない間に階段の下り口に着いていた。引き返そうとした闇の守護聖は、下から聞き覚えのある声がするのに気づき、足を止めた。

「……すみませんね、私がぼうっと歩いていたもので」

「いえ、俺たちがいけなかったんです。しゃべるのに夢中で、前をよく見ていなかったから」

「ルヴァ様、本当にすみませんでした。落とされた書類、これで全部でしょうか」

見れば階段のすぐ下で、風と緑、それに地の守護聖が話しているところだった。

「えーと、ええ、あなたが今拾ったので全部ですね。どうもありがとう」

「“個人用覚書──予測値を超えた異常の一覧──最近の研究院報告より”……何だか、難しそうな書類ですね」

最後の一枚を渡しながら、緑の守護聖が興味深そうに言う。

「異常って……俺、聞いてないですよ!」

声を上げたのは、風の守護聖であった。

「どこで異常が起きたんですか、何があったんですか」

「あー、それはですね、えーと、ランディ、そうじゃないんです……」

ルヴァの困惑した表情が視界に入る。

 どうやら地の守護聖も、自分と同様、最近の報告書を調べていたらしい。それが、たまたま少年たちとぶつかったために覚書を落とし、見出しを読まれてしまったのだろう。

「……あなたたちが心配するような事は、今のところ何もありませんよ。予測外といっても、私たちに報告する必要のないくらい小規模なものしか起きていないので、何も聞いていなくて当然なんです。ただ、研究院の予測というものは、常にさらなる正確さを目指しているものですからね、もし今後、基準値が現状とあまりかけ離れるような事が起きたら、計算方法をどのように見直したらいいかと、これはその、そういった助言のために作った、資料のようなものなんですよ」

いつも以上に長々しく、また本意を巧みに隠した説明をされて、ランディはしばし考え込んだ。

「えーっと……つまり、何も困った事は起きてないんですね?」

地の守護聖は無言のまま、ただ微笑んでみせる。それを見たマルセルが、安堵の言葉を発した。

「良かった。僕、ちょっとだけ心配しちゃったよ」

風の守護聖もいつもの表情に戻り、ルヴァに一礼した。

「ルヴァ様、早とちりしてすみませんでした」

「いいえ、いいえ、気にしないで下さい」

先輩守護聖の返事を受けて、少年たちは元気な足取りでどこかへ歩み去った。

 ルヴァが階段を上ってくる気配がしたので、クラヴィスは急いで踵を返した。今は誰にも会うつもりは無かった。ただ、どこか静かな場所で、先刻蘇った感覚を思い出し、見極めたかった。守護聖の中でも、任期の長い者だけが感じ取っている異常。自分とルヴァ、そしてジュリアスだけが……

 意識のどこかに引っかかるものがあるのだが、どうしても探り当てられない。まるで、起ころうとしている異変そのものに妨げられているかのように、記憶が拡散しては消えていってしまう。

  とはいえ、それが明らかになる日が近づいているのは、確かだろう。



 そう思った時、背筋を、冷たい感覚が走っていった。

(またしても……これか)

答を求めていながら、それが得られる瞬間を怖れている。異変の正体が明らかになると共に、何かが起きる事を予感している。自分にとっては、思いもよらぬほど大きな、何か──怖ろしい事が。



  逃げるように車寄せに向かい、湖近くまで馬車を走らせる。

 徒歩になり、豊かな緑をぬって進んでいくと、繊細な波紋を浮き立てた湖面が眼に入ってくる。それが視界を満たすまで歩み寄って、闇の守護聖はようやく、幾ばくかの落ち着きを取り戻した。



 ルヴァがあのように調査し始めた以上、異変は遠からずその内容を明らかにされるだろう。それに伴って、自分に何かが起こるとしても、もう止める手段などないのだ。

 意識を現にとどめ、幸福をもたらす者を側に置いた罪に加え、いったいどのような事が降りかかろうとしているのだろうか。それが知れない以上、覚悟のしようもないが、とにかく耐え忍ばなければならない。守るべきものを守る力を、残しておかなければならない。

「……できるものならば、な」

弱った自らを嘲るかのような呟きには、しかし言葉と裏腹に、真剣な願いがこもっていた。


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