闇の章・4−42
42.
翌日、金の髪の女王候補が執務室を訪ねてきた。
「育成をお願いします。エリューシオンに、たくさん闇の力を送ってください」
高く澄んだ少女の声に、なぜか力強い響きが感じられて、闇の守護聖は視線を上げた。
まっすぐ見つめてくる緑の瞳には、以前見られなかった深い輝きが現れている。この部屋に来るたび、怯えた表情を見せていた少女が、いつからこのような眼をするようになっていたのだろう。成長が著しいとは思っていたが、試験終了が目前となった今、それが更に速まってきたのかもしれない。
「たくさん育成するのだな……わかった」
「ありがとうございます。あの、それから──」
アンジェリークは、表情を曇らせて続けた。
「ディア様がどうしていらっしゃるか、クラヴィス様はご存知ですか。お部屋もずっとお留守なので、何だか心配になって」
鋭い勘を持っているものだ、と闇の守護聖は思った。それともサクリアが目覚め始めたために、同質の力を持つ者の異変を感じられるようになったのだろうか。
「聖地で、女王を助けていると聞いた……それ以上は知らぬ」
心の底まで見抜かれそうな視線から眼をそらし、クラヴィスは答えた。
「そうですか……ありがとうございました」
不安そうな表情は隠せなかったが、少女は礼を言って退出して言った。
それから間もなく、もう一人の女王候補が部屋を訪れた。
こちらの少女もまた、試験の間に成長したものだと、闇の守護聖は今さらのように気づいた。最初から能力は高いようだったが、聖地に来た頃の態度と比べると、ずいぶん柔軟で度量の広い人間になったように見える。これもまた、女王として大切な資質といえるだろう。
「クラヴィス様……不躾な事を伺いますが、もしディア様の居場所をご存知でしたら、教えていただけませんか。二三日前から、いつお部屋を訪ねてもいらっしゃらないんです」
やはりこの少女も、女王の力に目覚め始めたのだと思いながら、クラヴィスは先刻と同じ答を繰り返した。
「お教えくださって、ありがとうございました。それから──」
納得したかどうかはわからないが、ロザリアは礼儀正しく膝を曲げると、珍しく躊躇を見せながら続けた。
「お話をしていただけませんか、あの……私について」
「……お前の事を、話すのか」
闇の守護聖は、怪訝そうに相手を見た。
大陸を観察し、研究院からデータを提供されている以上、今日で試験が終わるのはわかっているはずだ。そのような時に、大事な力を会話に使っていいのだろうか。
とはいえ、女王候補に望まれたのなら、従うしかない。クラヴィスは少し考えを巡らせてから、思ったままを口にした。
「そうだな……試験においても、また周囲との関係においても、お前は期待以上に立派に振舞ってきた。生まれや育ちばかりでなく、自らの意志と努力で得た力というのは、貴いものだな。私はお前から、それを教えられたように思う」
このような話が何の役に立つのかと、クラヴィスは不思議に思ったが、ロザリアは感じ入ったように唇を震わせ、礼を言った。
「ありがとう……ございました」
それから何かを思い切るように、少女は急に強い声になって続けた。
「では、育成をお願いしますわ。フェリシアに、たくさんの闇の力をお送りください」
依頼をすませたロザリアが立ち去ると、闇の守護聖は疲れたように、背もたれに躯を預けた。
女王候補たちは二人とも、もう力が残っていないように見えた。どうやら揃いも揃って最後に、闇のサクリアを依頼する巡り合わせになったようだ。
育成は執務時間後、研究院に着いた守護聖から先に──一人が双方から依頼を受けていた場合は、受けた順で──行なう事になっている。規則上は相手を妨害する事も可能だが、これまで一度もその依頼が出された事はなく、また、終盤ではかえって不利になるのが明らかなので、考えに入れる必要はないだろう。
つまり成り行きによっては、この自分の育成で女王が決定する事になる。気が重いが、どうもそうなる予感がしてならない。
(そして、それを契機に、救済が開始される……)
先日聖地に行った時の様子では、終焉まではまだ余裕があるように思われたが、いきなり加速する可能性を思えば、油断するわけにはいかない。それに、女王の消耗を考えれば、早く開始できるに越した事はないだろう。
今宵は早めに研究院に行こうと思った時、昼休憩を告げる鐘が聞こえてきた。
いつものように竪琴を携えてきた水の守護聖に、クラヴィスは静かな曲を所望した。試験を終わらせるという、華々しくも重い役目を前に、少しでも心を休めておきたいと思ったのだ。
「静かな曲を……この終焉を飾るために、な」
気が引けている自分を意識すると、つい皮肉交じりの言い方になってしまう。
しかし返ってきたのは、思いがけなく激しい反応だった。
「何をおっしゃるのです!」
恐れと悲しみに溢れた声に、闇の守護聖は相手の裡で何が起きたかを悟った。
軽はずみに“終焉”などと口にしたばかりに、宇宙のそれを指すと取られてしまったのだ。衝撃的な事実を知らされてから、まだいくらも経っていないリュミエールに対し、あまりにも迂闊な言い方だった。ただでさえ人一倍感じやすく、繊細な者だとわかっているはずなのに。
どうすればよいか迷った挙句、クラヴィスは午前中の出来事を知らせてやる事にした。罪滅ぼしにもなるまいが、せめて事実がわかれば、痛みを軽くできるかもしれないと思ったのだ。
果たして、水の守護聖は納得したばかりか、誤解した事を謝り始めた。
「申し訳ありません。勘違いから、失礼な事を申し上げて──」
「時が時だ。やむを得まい……そういえば」
必要のない謝罪を遮ろうと、クラヴィスは女王候補の二人がディアを探していた事を教えた。補佐官の身を気遣うリュミエールに、それもあと一日のはずだと宥めると、ようやく青年は気を取り直したように椅子に腰をおろし、竪琴を構えた。
流れてくる調べが、いつものように穏やかなものだったので、闇の守護聖は安堵の息をついた。不用意な物言いで傷つけてしまったが、何とか落ち着きを取り戻してくれたようだ。
深く静かな闇の中を、柔らかな楽の音が流れていく。それが心に染み入ってくるのを感じながら、クラヴィスは改めて思った。
永い歳月の間、自分は毎日のように、これほどにも幸福を得ていた。“これほどにも幸福を得る”という罪を、重ねてきていたのだ。間もなく消滅させられるか、あるいは苦悶の檻に投じられる事になろうが、今さら嘆く理由もない。
ただ──リュミエールに感謝を伝える事ができたらと、その未練だけはどうしても捨てられないのだが。
ほどなく休憩時間が終わると、水の守護聖は退出の挨拶をして立ち上がった。クラヴィスは話しかけようとしたが、言葉も浮かばず声も出ず、ただ、その後ろ姿を見送るしかできなかった。
育成依頼は終わっても、新宇宙全体の分析や管理など、まだ数多の執務が残っている。午後の陽が傾きかけた頃、リュミエールに回す書類を仕上げたクラヴィスは、重い躯を引きずるように水の執務室を訪ねた。
しかし部屋の主はおらず、代わりに侍従が書類を受け取ると、申し訳なさそうに告げた。
「リュミエール様は、少し前に王立研究院に行かれました。二大陸のデータを確認するだけだとおっしゃいましたので、そろそろ戻られてもいい頃なのですが」
闇の守護聖の胸を、ふと不吉な予感が過ぎった。なぜだろうか、まるでリュミエールが、二度と戻ってこないような気がする。平穏そのものの飛空都市の、さほど遠くもない研究院に行っただけだというのに。
自室で占うべきかと考えながら、クラヴィスは廊下に出たが、気づけば足が車寄せに向かっていた。
馬車を飛ばして駆けつけた王立研究院で、闇の守護聖は手当たり次第に職員に尋ね、リュミエールが次元回廊室に入った事をつきとめた。
急いで回廊室に入ると、幾人もの職員が、顔も上げずに機械を調整しているところだった。
「リュミエールは、ここに来たのか」
問われてはじめて、守護聖が来ているのに気づいたらしく、職員たちは飛び上がらんばかりの勢いで振り返った。
「これはクラヴィス様……はい、少し前に、回廊に入っていかれました。内部がかなり不安定になっているので、ご注意申し上げたのですが」
職員が言い終わらないうちに、闇の守護聖は奥に進み、回廊の扉を開けようとした。
しかし一瞬、僅かな隙間だけが開いたかと思うと、扉は抗い難い力で閉ざされた。圧力とも熱とも音ともつかない、五感の限界を超える激しい力が、全ての接触を拒んでいた。
(これ……は……!)
宇宙の、次元の狭間の本来の姿を、クラヴィスは感じた。女王の力による、ほんの一部の制御さえ無くなって、何者の進入も叶わない絶対的な障壁が、そこに復活していた。
「リュミエールは、このような所に入ったのか!」
思わず声を荒げて問うと、職員は震えながら頭を振った。
「いいえ、あの方が通られた時は、まだ通行可能な状態でした。それでも、守護聖様でなければ難しいレベルでしたが……それからしばらく経ってからです、回廊がこのようになったのは」
「このようになった……だと」
闇の守護聖は、扉を睨みつけるように凝視した。
「もはや回廊など、存在しないではないか!」