闇の章・4−43
43.
口走った言葉は、そのままクラヴィス自身の心に突き刺さった。
(回廊が……消えた)
そのような事が、あってよいはずがない。道が閉ざされ、元宇宙と完全に切り離されてしまうなど。
少しずつ通り難くなってきていたのには、気づいていた。女王の力で無理に開けていたものが、その力が向けられなくなったため、徐々に薄れてきていたのだ。しかし、まさか消滅にまで至るとは……
クラヴィスは、ぞっとする思いで扉を見つめた。まさか、女王の身に何か起きたのだろうか。万一、力尽きるような事でもあれば、宇宙も、そこにいる全ての者も、破滅を免れられなくなる──リュミエールも含めて。
闇の守護聖はやにわに振り返り、職員に詰め寄ると、叫ぶように尋ねた。
「パスハはどこだ。回廊を復活させる手立てはないのか!」
「主任は聖地に行っておりますので、我々で復旧手段を探っているところです──失礼します」
そこまで言うと職員は機械に向き直り、複雑そうな操作を再開した。
パスハまで不在とは、何と言う間の悪い巡りあわせだろうか。クラヴィスは焦燥を覚えたが、これ以上話しかけても邪魔になるだけだと思い、焦燥しながら職員たちの動きを見守った。
すると突然、全身から力が抜け始めた。躯だけではない、魂の一部が抜き去られたような虚脱感に、膝が折れそうになっている。
(何……だ?)
あの呵責とは違う、大きすぎて輪郭の見えない不安が湧いてくる。
正体がわからないまま、動揺が恐慌に変わりかけた時、高く澄んだ声が耳に飛び込んできた。
「……ここに来なきゃならないって、そんな気がしたんです」
「非常事態なのはわかっていますわ。通しなさい」
見れば女王候補の二人が、止めようとする職員を尻目に、毅然とした足取りで近づいてくる。今朝より更に威風を増し、あたかも荘厳な光を発してでもいるかのようなその姿に、クラヴィスは心が鎮められるのを感じた。
「あ、クラヴィス様」
アンジェリークが一瞬、女王候補の表情に戻って呟いたが、ロザリアは無言でこちらに目礼し、すぐ前を向いた。
「ここだわ。さあ、急いで」
二人は扉の前まで来ると、揃って両手を前にかざした。
少女たちの全身から、白と金の力が波のように湧き起こり、周囲の光景を歪ませるほどに強まっていく。それを浴びた扉が自ら開くと、何も受け付けないはずの混沌に、力が輝く線となって進入し始めた。
その中を、一つの影が近づいてくるのが見える。始めは生物かどうかも定かではなかったが、扉のすぐ側まできてようやく、それが人であると見て取れた。
職員たちが駆け寄り、戸口をくぐるところを抱きとめる。飢餓か大病を経たかのように変わり果てた姿ながら、双眸に宿る厳しい光は、見間違えようもなく首座の守護聖ジュリアスのものだった。
近づくクラヴィスに気づいたのか、乾いた唇から、声にならない掠れた音が漏れた。
「育成を、今すぐ……宇宙が……」
「どういう事だ、何が起きている!」
闇の守護聖の詰問に、答は返ってこなかった。ただこの一言を伝えるために、限界を越えて来たのだろう。光の守護聖は、精魂尽きたように気を失っていた。
判断に迷って扉を眺めると、二人の少女はなおも、周囲の出来事にも気づかない様子で力を送り続けている。それだけ、事態が緊迫しているという事なのだろう。
やむなく闇の守護聖は職員に同僚を託し、回廊室を出た。
育成の間に向かいながら、クラヴィスは自分に言い聞かせていた。
ジュリアスが通ってきたという事は、回廊は完全には失われていなかったのだろう。女王はまだ力を残して救済に備え、リュミエールも大事無く聖地にいるに違いない。はっきりした事はわからないが、とにかく今は、言われたとおりにするしかない。
目的の場所に着くと、闇の守護聖は心を静めてサクリアを呼び覚ました。そして、先に受けたアンジェリークの依頼に従い、まずエリューシオンに多くの闇の力を送った。
間違いなく届いたのを確かめ、続いて、フェリシアに送るべく集中を始めようとした時、それは起こった。二大陸の中央にある島から、天を貫くように、幾筋もの光が差し上ったのだ。
「これは……!」
今、エリューシオンの民が島に到達したのを──次期女王が決定し、同時に救済が開始されたのを、クラヴィスは悟った。
生気に満ちた光の束が飛空都市まで立ち上り、自分から近い場所に集まっていくのが感じられる。それがどこなのかは、考えずともわかっていた。
急いで回廊室に戻ると、果たして、立ち上ってきた眩い線が床を貫き、少女たちの放つ力と融合しているところだった。
「……アンジェリークさえ良ければ、補佐官を務めたいと思います」
既に女王決定が告げられ、ロザリアが希望を述べているようだった。
「ロザリア、ありがとう。あなたがいてくれたら、とても心強いわ」
金の髪の少女──いや、256代女王が、喜びに潤んだ眼をして答える。
『よかろう』
この上なく荘厳でありながら、限りない慈愛に満ちた女性の声が、扉の奥から響いてくる。
『では、わが最後の務めに協力してほしい。中央島を基準点とし、死に瀕したこの宇宙の星々を、全て新宇宙に移すのだ──アンジェリーク、ロザリア、受け入れを』
「は、はいっ」
異口同音に答えた少女たちは、祈るように眼を閉じ、手を取り合った。
(宇宙の全ての星を、新宇宙に移動させる……これが、救済の方法だったのか……)
女王の業の壮大さに、闇の守護聖は心から畏敬の念を抱いた。
まだ数少ない星しか生まれていない幼い宇宙にならば、元宇宙の全ての星を受け入れる余裕があるのだろう。そして、位置を定めるための基準点を、あの中央島に取るためには、歴史の流れの中で人が到達したという、大きな運命の力を借りる必要があったのだ。
呻き声に振り向くと、ジュリアスが微かに意識を取り戻し、力を発しているのがわかった。クラヴィスは頷くと、自らも混沌に向かって力を放ち始めた。他の守護聖たちもこの声を聞き、それぞれの場所から女王を助けるべく、力を送っている事だろう。
大いなる移動が、今、始まる。
どちらの宇宙に住まっていた者も、それからしばらくの時間を、はっきりと認識できなかった。ただ漠然と、途方もなく巨きな力と慈しみに包まれて、相応しい処に位置を定められるのを感じていた。
時計の動きではほんの一瞬の出来事に過ぎなかったが、何世紀かかっても届かない距離を旅してきたような不思議な感覚だけが、まるで夢のように心に残っていた。
「パスハ主任!」
大きな声で我に返ると、回廊室の通信モニターに、竜族の青年が映っていた。
『聖地の研究院より、通信を試みている。そちらはどのような状況だ』
「は、はい。体感できる異常はありませんが、すぐ宇宙全域の観測を開始します。それから、ジュリアス様が衰弱されているようなので、医官を呼んだところです」
動揺しながらも、職員が懸命に答えている。別の職員は、今の言葉通りに、医官に連絡をとっているようだ。
聖地と通信が繋がったのなら、移動は無事終了したのだろう──そう思った途端、クラヴィスは膝から崩れ落ちそうになった。安堵をかき消すように、先刻の不安と虚脱感が、いっそう激しく襲ってきたのだ。
(この感覚……まさか!)
闇の守護聖は力を振り絞り、職員を押しのけて通信機の前に立った。
「パスハ、リュミエールはそこにいるのか」
呼びかけると、いつも冷静な主任研究員が、激しい動揺を見せるのがわかった。
『リュミエール様は……』
苦しげに双眸を閉じ、声を絞り出す。
『……探知し得る限り、どこにも存在されません』
パスハが語ったのは、恐ろしい事実だった。実際に回廊は消滅し、女王の力も終焉を抑えきれなくなっていたという。あの時育成を始め、救済を開始しなければ、全てが手遅れになっていただろう。
だがそのためには、誰かが囮となって混沌に飛び込む必要があった。その役を買って出たのが、リュミエールだったのだ。目論みは成功し、微かに復活した回廊に入ったジュリアスが、傷つきながらも育成指示を伝えたため、救済は際どいところで間に合った。
女王とディアは再び連絡不能となったが、恐らく元宇宙を監視後、最後に回廊から新宇宙に移ってくるだろう。かくして全ての生命は破滅を免れ、新宇宙に時を刻み続ける事となる。
ただ一人、混沌内に消えたリュミエールを除いて。
全てを知った闇の守護聖は、一言も発する事なく回廊室を出ると、聖殿に戻っていった。
執務室に入り、水晶球を手に再び廊下に出る。そして正面階段を下りかけた時、大音声が呼びかけてきた。
「クラヴィス様!」
見れば炎の守護聖が、ジュリアスを担ぐように肩に負いながら、玄関から入ってくるところだった。
光の守護聖はまだ朦朧とした様子で、それでもこちらに視線を向けて何事か呟いた。それを聞き取ったオスカーが、代わりに強い声で伝えてくる。
「ジュリアス様がおっしゃっています。何をするつもりだ、これ以上守護聖が欠けるような危険を冒す事は、許さぬ──と」
闇の守護聖は、重いが迷いのない足取りで階段を下りてきた。
「お聞きになったでしょう」
オスカーが、進路を塞ぐように立ちはだかった。
その腕に抱きかかえられた首座の守護聖に、クラヴィスは視線を移した。衰弱していてもなお、青い眼差しは容赦なく、金の髪の下から、射抜くようにこちらを見つめてくる。
「……ならぬ、クラヴィス!」
聞こえてきたしわがれ声は、責任を全うしようとする者の懸命な叫びだった。
だが闇の守護聖は、相手の眼をまっすぐ見て、答えた。
「誰も欠けさせぬ。約束する」
ジュリアスの表情が、厳しさから驚愕に変わる。
その横を通りぬけ、クラヴィスは車寄せに向かって歩き去った。
御者に目的地を告げ、座席に着いた闇の守護聖は、落ち着かない気持ちになっていた。
これから為す事のためではない。どこで何をするかは、もう決まっている。それが成功するかどうかも、考えようとは思わなかった。成功しなければならない、それだけだからだ。
不安の原因は、先刻ジュリアスに相対した時の、自身の反応だった。あの輝く髪の下から、激しい眼差しで見られた時は、これまでかと覚悟した。押し寄せる呵責に身も心も竦みあがり、動けなくなってしまうだろうと恐れたのだ。
だが、そうはならなかった。ならなかったという、その事が心を揺さぶり、混乱させている。磐石だったはずのものが、再び壊れようとしているような、恐ろしい予感がする……
「森に着きました」
御者の声が耳に届き、我に返ると、馬車は既に停止していた。
闇の守護聖は、急いで車を降りた。自分の事など、考えている場合ではない。今からリュミエールの許に赴き、連れ帰らねばならないのだから。
森に入り、小道を進んでいくと、湖とその奥の滝が近づいてきた。美しい緑に囲まれて、いつものように音としぶきを上げながら落ち続ける、清らかな水の帯。新宇宙にあって、元宇宙をも宿しているもの。飛空都市にありながら、聖地の水の流れる場所。
湖畔にほどよい大きさの岩を見つけると、闇の守護聖は携えてきた透明な珠を置き、その前に跪いた。
水晶球には、望みのものを映し出すのと逆に、望む処に操者の精神を移す業があると言われている。あまりに危険なため、魂が己の珠と結びついていると称される最高の熟練者であっても、実際に行なった例はないという、いわば禁断の術だ。
望むものを映し出す事も叶わない自分は、熟練者ではないかもしれないが、魂との結びつきだけは異様に強いのを感じている。この業を今使わずして、何のために水晶球を持っているというのだろうか。
陽光と水の輝きを受け、冷たく光る珠に向かい、クラヴィスは混沌を念じた。新旧の星々を擁したこの宇宙と、死に行く旧き宇宙。その間に横たわり、微かに残る回廊以外は、時空も方角も距離も存在しないもの。測り知れない力を持って、形為す全てを否定する処。
(そこに……!)
自分が二つに引き剥がされるような苦痛が襲い、遠のいていく。水音も、景色も地面の感触も、全ての感覚が遠のいていく。
入れ替わりに、恐ろしい気配が近づいてくるのを感じる。どれほど強い精神であっても瞬時に霧散するほどの圧。何物にも比べられぬ、不可知にして絶対の存在。混沌。
それに突入するのを感じながら、クラヴィスは昂然と一つの意志を掲げていた。
リュミエール、必ずお前を見つけ出し、連れ帰る。