闇の章・4−6


6.

 薄暗い部屋の中、まだ十歳にも満たぬ少年が、焼け焦げた紙片を手に立っている。消えかけた暖炉の火に照らされて、金の髪がほのかな光を放っている。

『お前は……お前という者は──』

紙片の中央に燃え残った神鳥の紋章が、震えているのが見える。



 薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いている。

 激しい眼差しが、時空を越えて心を責めつけてくる。



(こ……れは……)

即位の光景の、その奥に隠れていた、もう一つの光景。意識の裏側から苛み続けてきた、もう一つの眼差し。

 これほどの罪を、自分は見失っていたのか。



『──反逆者め!』

紙片を突きつける少年の、怒りに燃える眼の底に、深い傷心の表情が覗いている。あれは、聖地の心だ。自分は聖地を裏切ったのだ。

 そうしなければならなかったから。



 その状況に陥る前──聖地に来たばかりの頃は、何か正体の知れぬものに、ただ怯え続けていたように思う。あまり記憶が定かではないが、暗い霧の中を彷徨っているような、不安定で心細い感覚は、今も残っている。だから、自分を見る者たちが、重職を担えるかと危ぶんでいるのを感じても、当然だろうとしか思わなかった。

 だが教育を受け、職務を始めるようになると、自分なりに興味や責任感が芽生えだし、それらに積極的に取り組むようにもなっていった。そしてある時、周囲の雰囲気が変わってきたのに気づいたのだ。



“よく励んでいるようだな。さすがは闇の守護聖といったところか……”

“最初はどうなるかと思いましたが、今ではご立派に職務を果たすようになって……”

“就任された頃のご様子を思えば、むしろ資質は抜きん出ていらっしゃるのでは……”



宮殿で、研究院で、聖地の至る所で耳につく会話。向けられる笑顔。いつの間にか自分は人々に認められ、敬意や、一種の好意さえ抱かれるようになっていたのだ。



 それに気づいた時、強烈な違和感に襲われた。この状態は相応しくない、あってはならないと、直感的に思った。

 しかし、どうしたらいいかわからなかった。勉学は止められても、仕事は毎日のように届けられる。断れず逃げられぬまま、ただそれを済ませていくだけで、また評価が上がってしまう。

 ついには、出会った頃は敵意に近い感情を見せていた、あの光の守護聖までもが、声をかけてくるようになった。

『だいぶ職務にも慣れてきたようだな。そなたが真面目に励んだ結果だろう。見直したぞ』



   これでいいはずがない。間違っている。放置していたなら、何か悪い事が起きるかもしれない──

 違和感は、いつか恐怖へと変わっていた。



 そしてある日、集いの間に並んだ守護聖たちに、女王補佐官がこう告げたのだった。

“ジュリアスは熱を出したので、医療院の判断で二、三日休む事になりました。勉強疲れだろうとの事ですが、他の方も、体調にはくれぐれも気をつけてください”

胸が早鐘のように打った。聖地で守護聖が倒れるなど、平常ではまずあり得ない事だ。

 まさかこれが報いなのかと、戦きながら過ごした翌日、予定より早く復帰した光の守護聖が、笑顔で話しかけてきた。

『昨日は失策だった。そなたが目覚しい成長振りを見せるので、私とした事がつい焦り、張り切りすぎてしまったようだ。もう無理はしないが、これからもよき好敵手として、互いを磨いていこう』



 眼の前が真暗になった。

 やはり、そうだった。自分が頑張りなどしたから、認められなどしてしまったから、このような事になったのだ。今のままでいたら、もっと災いが起きるに違いない。何としても終わらせなければ。すぐにでも評価を地に落とし、二度と蘇らせないようにしなければ。



 追い詰められた心で思いついたのが、書類を焼き捨てる事だった。それも、女王の署名の入った重要書類を。

 どのように発覚させるかまでは考えていなかったが、たまたま別の書類を届けにやってきた光の守護聖が、普段使われていない暖炉に火が入っているのに眼を留め、そこで焼かれているものに気づいたのだった。

 報告を受けた女王と補佐官は怒りもせず、ただ心配そうに理由を尋ねてきた。二人の表情の奥にも、ジュリアスのように傷ついた心が垣間見えていたのを覚えている。だが、自分が頑として、職務をしたくないからとしか答えなかったため、結局は“いつか話せる時が来たら、真実を教えてほしい”という女王の言葉と共に、処分は保留となった。

 事件は秘密裏に処理され、既に知っている三人以外には明かされる事もなかったが、ただならぬ雰囲気で呼び出された姿を見た者でもいたのか、闇の守護聖が重大な問題を起こしたらしいという噂は、ゆっくりと広がっていった。さらにその後、職務案件ごとの重要度がわかるようになった自分が、その低いものを遅延させるようになったため、信頼は望みどおり地に落ちた。

 人々の言動からその事に気づき、もう災いは起きないだろうと思ったのを覚えている。



 だが心には、満足感はおろか、少しの平穏さえ訪れはしなかった。かねてからの 怯えに加え、ジュリアスの激しい眼差しが、女王と補佐官の傷や、聖地の人々の失望をも溶かしこんで、昼夜なく自分を責め続けていた。

 それでも謝罪はおろか、真実を語る事もできかった。少しでも評価が上がる事は、避けなければならなかったからだ。



 そうして、重い痛みに心が疲れ果てた頃、彼女が現れた。

 闇に慣れた身には、裡に宿る女王の輝きが鮮烈に感じ取れた。誰のものにもなり得ない存在だと気づいていながら、だからこそ、自分の心は前に進み出ていた。報われないと知っていたからこそ、気持ちを駆り立て、煽り上げ、破滅させた。

 彼女を利用して、自分を罰したかったのか。それとも、罰しようとしなかった前女王の代わりを求めたのか。それもまた、罪なき者を傷つける事になると、気づきもせずに。



 薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いている。

 激しい眼差しが、時空を越えて心を責めつけてくる。



 あの時、彼女の眼差しに、気が遠くなるほどの衝撃を受けたのは、再び同じ罪を犯したと気づいたためだったのか。その衝撃に記憶が乱れ、二つの罪が重なってしまったのか。

 玉座に着く少女と、暖炉の傍らの少年。薄暗かったのは、即位の場ではなく執務室だったからだ。暖炉の僅かな光を受けて、長い髪が乱れ散っている。淀んだ空気に溶けるように、銀を帯びた鈍い輝きを放って……

(銀……?)

思い出したばかりの光景が、僅かに霞んでいる。そこに意識を向けようとした時、鋭い光が両眼を刺した。



「……うっ!」

思わず、呻き声があがった。回想にしては強すぎる、それは、現実の光だった。

 いつの間に戸外に出ていたのか、聖地を照らしわたる太陽が、下にあるもの全てを暴きつくすように輝いている。

 顔を背け、倒れこむように物陰に身を寄せると、闇の守護聖は、すぐ側に清らかな流れを感じとった。 近くに小川でもあるのか、周囲の空気に溶け込んだ水の気が、淡い癒しとなって自分を包み込んでいる。

 それが悲しげな声となって叫ぶのを、遠い谺のように聞きながら、クラヴィスの意識は再び闇に沈んでいった。




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