水の章・1−5
5.
リュミエールは放心した様にクラヴィスを見上げ、今聞いた言葉を、心の中で反芻していた。
"こちらを見ようとしない……意識をどこかに飛ばしたまま……どこかに……"
やがて闇の守護聖が歩き出し、庭園の東門の方へ姿を消すと、リュミエールはようやく我に返った。
"……どこかに……!?"
少年は今、自分の焦燥の原因を、朧気ながら悟る事ができた。
クラヴィス様は、あの方の意識は、放っておくとすぐ、どこかへ行ってしまいそうなのだ。それが場所なのか、記憶なのか、それとも自分の理解も及ばない未知の領域なのかは分からない。だが、少なくともそこには、聖地のような日射しも平和も無いのだろう。あれほどに虚ろで悲しげな瞳をもたらすからには。
"あの方は、そんな所に行ってはいけない!"
竪琴を携える手にぐっと力を込めると、リュミエールはクラヴィスの後を追い始めた。
行き交う人に尋ね、更に自分の勘を頼りにしてクラヴィスを探すうち、リュミエールは、とある林に辿り着いた。
それを通り抜けた先に、森の湖から流れ出す川の、小さく開けた岸辺がある。鳥が水を飲みに来るくらいで、あまり人には知られていない場所だったが、リュミエールは偶然ここを見つけ、好んで訪れるようになっていた。
そして何度かに一度は、クラヴィスと出会うのだった……
老若の落葉樹の間を縫って進むと程なく、陽光の降り注ぐ岸辺が見えてきた。
そこに、闇の守護聖がいる。流れのすぐ近く、爪先を濡らさんばかりの際に立ち、水面を見つめている。
青銀の髪の少年は大きく息を吸うと、意を決して歩み寄り、声を掛けた。
「クラヴィス様」
身の丈ほどもある長い黒髪がゆらりと動き、白皙の面が無言で振り返る。吸い込まれそうな虚無の瞳に、またも心が波立つのを感じる。
だが、それはもはや、少年の行動を封じきれるものではなかった。
「……私も、ここにいていいでしょうか」
震える手を隠し、できるだけさりげない微笑を浮かべながら、リュミエールは言い出した。
クラヴィスは何の表情も現さないまま、低く答える。
「別に。私一人の岸辺ではない……」
短い会話を終えると、クラヴィスが再び川を見つめ始めたので、リュミエールも数歩離れた水辺に立ち、彼に倣った。
こうして水面を見つめるのは、この方と出会った日以来かもしれない。初めて聖地に足を踏み入れた日……
既視感が、少年の心を追憶に向かわせていた。
あの日、クラヴィス様は確かに、今と違った目をされていた……見間違いではなく。
あれが本来の姿だとしたら、何がこの方をここまで変えてしまったのだろう。それとも、今の姿こそが本来のものだとしたら……だとしたら、私の見た優しく柔らかな瞳は、いったい何だったのだろう。
それに、ジュリアス様の仰っていた事。
体はここにありながら、意識はどこかに別の所に行っているようだと……そう、ただ余所に在るだけではない。
私には分かる。クラヴィス様の心は、そこで凍り、そして渇いている。
助けを求める気配さえ存在しない、この瞳の奥で。
リュミエールは、不意に動いた大きな影に驚いた。
闇の守護聖が徐に水辺から離れ、林へと歩き出しているのだった。
「あの……私も、ご一緒していいでしょうか!」
少年は、とっさに叫んでいた。
「構わぬが……」
短い沈黙の後で答え始めたクラヴィスは、いったん言葉を切り、そしてこう聞き返してきた。
「私の行く先を、お前は知っているのか」
もっともな質問にリュミエールは黙り込み、それから蚊の鳴く様な声で、やっとこう答えた。
「……いいえ」
白皙の青年は束の間、こちらを見つめていたが、突然前を向くと、また歩き出した。
再度の既視感に幻惑されそうになりながら、今度こそ姿を見失わぬよう、リュミエールは彼のすぐ後ろを付いて行った。
クラヴィスは林を抜け、北へと歩みを運んだ。滝の音を聞きながら緩やかに曲がる道を採り、やがて見えてきた白亜の建物に向かって行く。
入口ホールに差し掛かると、居合わせた役人や侍従達が一斉に道を空け、敬礼の姿勢をとる。青年は黙したままその中を抜け、奥階段へと進んでいく。ぎこちなく会釈しながら、リュミエールがその後に続く。
階段を上ると左に折れ、突き当たりから二番目の扉に手を掛ける。
そこは、闇の守護聖の執務室であった。