水の章・1−6


6.


 初めて訪れたその部屋には、光というものがほとんど存在しなかった。あるのは朧気な燭台の明かりのみで、壁も床も、窓さえも暗色の布で覆い尽くされている。

 仄かに薫るのは、何かの香だろうか。

 無遠慮かと思いながらも、リュミエールはそっと周りを見回してみた。だが、燭台の乗せられた執務机以外は、全てが闇に包まれ、輪郭も定かではない。

 この部屋の主はまっすぐに執務机に向かうと、その椅子に掛け、机上の水晶球に目を落とした。占い師が使う様な、大人の掌にやや余る大きさの珠である。

 それきり、言葉を発しようとも目を上げようともしない。

 リュミエールは、酷く決まりの悪い思いがした。入室を許されはしたものの、元々何をしようと思って付いてきたわけでもない。

 作り出された闇の中に立ちつくしていた少年は、やがて諦めたように目を閉じた。




 すると思いがけなく、気持ちが落ち着いていくのが感じられた。緊張が解け、心が潤いを取り戻していく。疲労した者が眠りに身を委ねるように、リュミエールはいつか、この感覚に精神を委ねていた。

 義務や対面、規範といった意識が洗い流されるように離れ落ち、替わりに、癒されるような懐かしさがこみ上げてくる。それは徐々に形を成し、暫く顧みる事も無かった記憶の断片を蘇らせ始めた。




 潮騒……光……心地よい湿り気を帯びた、暖かな大気……

 一日の中で、いくつもの異なった美しさを見せる海の色。潮の香りを運ぶ風、飛び交う鴎たちの声、澄んだ水を通して覗ける魚たちの姿。

 母の開けた窓から射す、目映い朝の陽射し。父とスケッチに出かけた午後の、木陰の涼しさ。夕食の後のひととき、妹と奏でた弦楽の音……

 片時も離れたことの無かった故郷での暮らし、離れたことの無かった家族たち……




 強烈な喪失感が胸を射し、リュミエールは思わず身を二つに折った。

(こんなに大切なもの……を、今まで思い出さずいたなんて)

 聖地に来て以来、緊張と忙しさの中で余裕を失っていたのか、あるいは、大切だからこそ直視できなかったのかもしれない。この痛みを恐れる余りに。

 (それでも……)

少年は細い指を握りしめ、必死で上体を持ち上げようとする。

 (それでも、私は思い出し続けたい、今の私を形作ってくれた、かつての幸福の記憶を。たとえ忘れた振りをして平静を保っても、それは不自然で辛い偽りに過ぎないのだから……)




 そこまで考えたリュミエールは、肩の荷がふっと下りたような気がした。そして同時に、自分が大きな安らぎの中にあるのを感じていた。

(これが、闇のサクリアなのでしょうか?)




 少年は、そっと目を開けてみた。燭台の弱々しい光の中、先ほどと同じ姿勢で、安らぎなど欠片もない瞳のままで、クラヴィスが座っているのが見える。

 (どうして……この方は)

 癒された思いも、穏やかな充実感も、遠い昔に奪われてしまったのだろうか。他人にはそれらを、惜しげもなく与えられるというのに。

 自分にできる事。ほんの少しでも、この方に、安らぎをもたらすかもしれない事。それは、ただ一つしか考えられなかった。

「クラヴィス様」

 そっと声を掛けると、切れの長い双眸が、水晶球から上げられる。

「もし……お嫌でなければ、竪琴をお聞かせしてもいいでしょうか」






 燭台の光を映して朱らむ弦の上を、白く繊細な指が舞うように動いている。

 リュミエールの申し出に、微かな頷きで応じた闇の守護聖は、そのまま眼を閉じて聞き入っている。

 底知れぬ奥行きがあるかに見える闇の空間を、素朴だが優美な音楽が流れていく。

 少年が選んだのは、故郷の古謡を編曲したものだった。その地では広く親しまれ、様々な楽器で演奏されている曲である。

 だがそれは、元々は唄であった。今ではあまり歌われなくなったが、昔、故あって遠い地に移らねばならなくなった乙女が、愛する故郷を思って作ったという謂われの詞が付いている。


……いつか 還りたい
懐かしいあの土地へ
美しいあの海へ
いつか いつの日か…………


 音を紡ぎながら、リュミエールはふと、この歌詞を思い出していた。すると、つい先ほどは乗り越えられると思っていた故郷への思いが、やにわに耐え難い強さで心を締め付け始めた。

 (何を私は……どうして……こんな時に)

 この辛さを黙って受け入れようと、決心したばかりなのに。何より今は、クラヴィス様のお心を慰めるために演奏しているというのに。

 平静を保とうとすればするほど指が震え、呼吸が乱れ、ついには、押さえきれない涙が蒼い双眸から流れ出してしまう。

 望郷の念に加え、自分を律しきれない悔しさ情けなさがこみ上げてきて、リュミエールは両手で顔を覆ってしまった。

「申し訳……ありません……」

そこに座しているはずの闇の守護聖に向かって、掠れる声を絞り出す。

 ややあって、低い呼び掛けが耳に届いた。

「……リュミエール」

「はい」

初めて名を呼ばれたのに驚き、少年は思わず顔を上げた。

 クラヴィスが、先ほどと変わらない姿、変わらない表情で座しているのが見える。ただそれを見つめているだけで、リュミエールの心は次第に平穏を取り戻し始めた。

 暫しの沈黙の後、闇の守護聖は静かに声を掛けてきた。

「落ち着いたか……」

「はい」

 少年は素直に頷く。そして涙を拭い、竪琴を構え直すと、改めて古謡を奏で始めた。

 (強くなりたい……この方のお力になれる様に)

と願いながら。


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