水の章・2−2


2.


 数分後、少年は地の守護聖の執務室で、机の脇に置かれた丸テーブルについていた。

「週末の帰り時間だというのに、すみませんねー。いえ、さっきこの窓から外を見たら、あんまりきれいだったもので、一人で楽しむのがもったいない気がしましてね、執務室に誰か残っていないか、声を掛けて回っていたんですよ」

 香りのいい紅茶を注ぎながら、ルヴァがいつものおっとりした調子で言う。

「いいえ、お招き下さってありがとうございます。本当に、美しい眺めですね」
リュミエールは微笑んで答えた。

 一階の端近くにあるこの部屋からは、盛りを迎えた前庭の木蓮がよく見える。夕方の黄金色を帯び始めた陽射しの中、白い花々は温もりを持った灯りのように幻想的に浮かび、葉のない枝の間からは、前庭の中央にある噴水の飛沫が、まるで宝石のようにきらめいて輝いている。

 「気に入って頂けて嬉しいですねー。そうそう、さっきカティスにも声を掛けておきましたから、もうすぐ来ると思いますよ」

 その言葉が終わるか終わらないかの内に、執務室のドアが勢いよく開いた。

「待たせたな、ルヴァ。おっ、リュミエールも来ていたのか」

 磊落で親しみやすい印象の緑の守護聖が、大股でテーブルに歩み寄ってくる。

 その後ろには、憮然とした表情の炎の守護聖が従っていた。

「ホールで、ちょうどこいつと出くわしたから、連れてきたんだ。構わないだろう?」

「ええ、もちろん歓迎しますよ、オスカー」

 赤毛の少年は、ルヴァに返事もしなかった。どうして俺が週末の夕方に、同僚とお茶なんかしてなきゃならないんだ、と言いたげな表情である。

 「ほら、あの木蓮を見てみろ。見事なものじゃないか……たまにはこうして花を愛で、仲間と親睦を深めるのも、いいもんだぞ。街に繰り出して、ドレスを着た花を追いかけるばかりじゃなくてな」

 リュミエールがその言葉の意味を解するより前に、オスカーが驚きの声を上げる。

「カティス様!どうしてそれを……」

「さあ、お茶をどうぞ、お二人とも」

 穏やかな声と共に、湯気の立つカップが差し出される。

 精悍な炎の守護聖は、諦めのため息をひとつ、漏らした。




 四人の内、少なくとも三人がひとしきりお茶と景色を堪能した後、カティスは思い出したように言った。

 「そういえば、オスカーを見つける前に、廊下でディアと会ったんだ。ここに誘ってみたんだが、研究院に急ぎの用があるとか言って、逃げられてしまったよ」

「こんな時間から、ですか」

 地の守護聖が、ターバンの巻かれた頭を傾ける。

「例の星系の件……でしょうかねえ」

 リュミエールとオスカーは、はっとした様にルヴァの顔を見上げた。






 時の流れが止まらないものである以上、全てのものには終焉が訪れる。

 某銀河の第947星系は、今まさにその時を迎えようとしていた。

 と言ってもこれは、宇宙規模の正常な新陳代謝の一部に過ぎない。第947星系は、平均的な星系の寿命よりもむしろ長持ちしていると言ってよい古さであるし、別の星域では新たな星系も着々と生まれてきているのだから。

 だが、一つの星系の終わりともなると、聖地からもある程度の干渉が必要となる場合が多い。そこに生きる者たちが無事に脱出し移住できるよう、また、可能な限り他星系に悪影響を及ぼさないよう、研究院や派遣軍を通じてきめ細かな配慮が為されるのだ。






 「ふむ。あれはもう、殆どの処理が終わっているはずだがな……まあ、何かあればきっと、ここにも連絡が来るさ」

 緑の守護聖は、場の雰囲気を取りなすように明るく話をまとめると、ティーポットを手にしたまま固まっているルヴァの肩を軽く叩いた。

「え、ああ、すみません。つい考え込んでしまいまして……」

「ははっ、お前のその癖は見慣れてるよ……そう言えば、リュミエール」

「は……い」

 突然話しかけられて、海色の瞳を大きく見開いた少年に、カティスは笑顔を向ける。

「クラヴィスの事なんだが……この頃、仲間たちのあいつへの見方が、幾らか親しげになってきた気がするんだ。俺が思うに、お前があいつの部屋に通うのを、みんなが見慣れたせいじゃないかな」 

「通うなんて……」

 大げさな言い方に、少年は白い頬を上気させていた。

「でも、もしそれが本当なら……嬉しいです」






 "通う"という言葉は、必ずしも誇張ではなかった。

 初めてクラヴィスの執務室を訪れ、不覚にも涙を流してしまったあの日、リュミエールは帰り際に、思い切って尋ねてみたのだった。

「いつかまた、演奏を……聴いていただけますか」

 断られても無視されても当然と、覚悟した問いだった。だから、相手の無反応を見て取ると、少年はすぐに退出しようとした。

 しかし、後ろに向き直る寸前、彼は確かにその目で見たのだ。

 闇の守護聖が微かに、だが確かに意志を持って頷いたのを。




 それから少年は、昼食後の休憩時間に、この部屋を訪れる様になった。

 午前の執務が終わり、軽い昼食を取ると、リュミエールは竪琴を手に闇の守護聖の扉をノックする。

「クラヴィス様」

 声を掛けると、ややあって返事が聞こえる。

「……開いている」

 重い扉を開けると、深く静かな闇の底に、白皙長身の姿が見えてくる。だが、相手はそれ以上言葉も発せず、視線さえ上げようとしない。

 これを拒絶と受け取り、その場で引き返しかかった事もあった。

「お食事はお済みでしょうか。よろしかったら、今から弾かせていただきますが」

 問いかけられた闇の主は、一切の表情を表さぬまま、僅かに顔を伏せる。

 これを非難と受け取り、すぐに退出すべきかと考えた事もあった。

 だがそんな時、ただ一つの希望が、少年を思いとどまらせていた。




 それは、初めて会ったときに見た、クラヴィスの眼差しだった。

 一人きりの安らぎを、見ず知らずの自分に邪魔されて、それでも柔らかく輝いていたあの紫の瞳。

 この方はきっと、竪琴の音色がお好きなのだ、演奏を気に入って下さっているのだと − その思いだけを頼りに、リュミエールはクラヴィスの部屋を訪れていた。

 闇が自分を癒してくれるのを感じながら、いや、それだからこそ一層、この方のお心を少しでも慰められたらと、淡い期待を抱きながら。

 初めは週に一度ほどだったその訪問は、いつか二度になり、三度になり……今では、平日の日課の様になってしまっている。

 本人は気づいていないが、それはどう見ても"通う"という言葉の相応しい状態だった。






 「そうですねえ、あなたが毎日会いたくなる様な人なのだから、きっと自分たちの気づかなかった魅力があるのだろうと……みんな、そう思い始めているのかもしれませんね」

ルヴァが嬉しそうに話を引き継ぐ。

「魅力、だって!?」

紅茶を吹き出しそうになるのを何とか抑えながら、オスカーが叫んだ。

 一同の視線が集中する。

 赤毛の少年は、慌てて言葉を探した。

「い、いや確かに、俺も以前は、もっと敬遠していた様な気がする。うん、カティスの言うとおりかもしれないな、まあ、リュミエールみたいな奴が、平気で側に寄れるって分かった訳だから」

「オスカー……」

 リュミエールにとって、この同僚の口の悪さには、未だに付いていけないものがある。

 「おいおい、クラヴィスに近づくと、取って喰われるとでも思っていたのか」

「あー、それはちょっと、ひどいですねー」

「いや、だから、俺が言いたかったのは……」

 先輩たちからも非難を受け、オスカーがさらに弁解をしようとした時だった。

 ルヴァの執務机の内線が鳴った。




 「まだいらしたのね、良かった……カティスも来ているのでしょう?」

モニターに映ったのは、ディアの顔だった。

「ええ、リュミエールとオスカーもね。あなたも用事がすんだのなら、今からこちらに……」

「すぐに王立研究院に来て下さい、そこにいる全員で」

 ルヴァの言葉を遮った補佐官の声には、常にはない緊張が現れていた。



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